敵の家で留守番!?禁門の変で見えた中岡慎太郎の「ヤバすぎる胆力」

禁門の変で負傷後、幕府方の兵を装って佐土原藩士の旅寓を訪ねた中岡慎太郎を紹介する記事のアイキャッチ画像

長州軍として禁門の変に参加した中岡慎太郎。

戦いで怪我をしたあと、彼が向かった先は――
なんと、戦ったばかりの薩摩方でした。

『殉難録稿』によると、慎太郎は幕府方の兵を装い、
中沼了三塾で面識のあった佐土原藩士・鳥居大炊左衛門の旅寓を訪ねています。

……いや、敵じゃん。

今回は、そんな「肝が据わりすぎている慎太郎」のお話です。

📽まずはサクッと動画でご覧ください

■ 禁門の変で負傷、長州軍の窮地へ

元治元年(1864)の夏、禁門の変が起こります。

前年の八月十八日の政変で京都を追われた長州が、
巻き返しを図った戦いです。

中岡慎太郎は猛将・来島又兵衛の率いる隊に属し、
天龍寺から中立売門へ進みました。

絶対に負けられない戦い。

このまま長州の想いよ、君に届け──
とはいきません。

援軍にかけつけた薩摩兵により、形勢は逆転。
銃弾を受けた来島又兵衛は戦死します。

慎太郎もまた、脚を撃たれて戦列を離れました。

■ 敵陣の薩摩方へ!佐土原藩の旅寓へ

脚を怪我した慎太郎。 
早く手当をしたいところです。

殉難録稿』によると、ここで慎太郎は、
佐土原藩士・鳥居大炊左衛門を訪ねました。

佐土原藩は現在の宮崎県にあった藩で、
薩摩と深い関係にありました。
薩摩の支藩とされることもありますが、
その位置づけには諸説あります。

少なくとも、長州軍として戦った慎太郎が
安心して転がり込める
「味方の家」ではありません

そこで慎太郎は、まさかの説明をします。

「今朝の戦いで、
 長賊の流れ弾に当たりました。
 しばらくここに留まり、
 治療をさせてください」

 (原文)
 「今朝の戦い、
  拙者長賊の流丸に中り傷を負へる間、
  暫く留て療治せんとす。
  幸いに座席を貸されよ」

長賊て。
長賊て!

びっくりして二度見しました。

あくまで『殉難録稿』に記された言葉なので、
本人は「そんなこと言うちょらん」
と言うかもしれません。

しかしまあ、堂々としたものです。 

下手をすれば、鳥居大炊左衛門や薩摩方の人々に
とどめを刺されてもおかしくありません
「敵の家に行く」という発想がすごい。

なぜ慎太郎は、
そんな虎穴へ飛び込んだのでしょうか。

■中沼了三塾の人脈と京都の地理感覚

実はこの年、慎太郎は
中沼了三塾へ潜入しました。

ここには薩摩藩の人々が多数在籍しており、
佐土原藩の鳥居大炊左衛門とも
ここで知り合ったようです。

徳島県民(阿波人)を詐称して薩摩だらけの
中沼塾に潜入したエピソードはこちら▼

西郷隆盛を調査せよ!阿波人を詐称して「中沼了三塾」へ潜入した中岡慎太郎のスパイ大作戦

元治元年春、中岡慎太郎が西郷隆盛の動向を探るため、薩摩藩士の集まる京都の「中沼了三塾」へスパイ潜入!「阿波人の西山頼作」と偽名を名乗るも、お国訛りで即バレ!?…

中沼塾は、現在の地図で見ると
中立売門から徒歩十五分程度の距離にあります。

慎太郎からすれば土地勘のある場所です。

鳥居大炊左衛門の旅亭も、この付近にありました。
慎太郎は、近くにいた知り合いのもとへ
手当を頼みに行ったのです。

■ 手当どころか留守番!?鳥居大炊左衛門との関係

慎太郎があまりにも堂々としていたからか、
鳥居は慎太郎の頼みをすぐに承知します。

それどころか、

「こちらも今朝からの騒ぎで、
 若い家臣や中間が皆出払っている。
 一人も留守を守る者がいないので、
 ちょうどよい。
 ここに残って留守をしてくれ」

(原文)
  「当方も今朝よりのさわぎに、
  若徒中間皆出て去りて
  一人も留り守る者無きゆえ、
  幸いに留主せよ」)

とまで言いました。

治療場所を貸すどころか、留守番まで任せる。
普通、そこまで信用します?

一方の慎太郎は、
「得たり」とその場に留まります。
しめた、と。

鳥居さんの信頼と、慎太郎の抜け目なさ。 
二人の温度差が、なんとも面白い場面です。

■西郷隆盛との会談説と薩長同盟の芽

鳥居さんの旅寓に留まった慎太郎。
ただ手当を受けて横になっていたわけではありません。

『殉難録稿』には、
慎太郎が「朝野の情況を視察」したと記されています。

同書には、さらに西郷吉之助を訪ね、
薩摩の真意を問いただしたともあります。

ただし、私が確認した範囲では、
禁門の変直後に慎太郎と西郷が会ったことを裏づける
別の史料は見当たりません。

当時の慎太郎は、まだ一介の土佐脱藩浪士。 

大混乱の最中に西郷本人へ会い、
薩摩の真意まで聞けたのか。
ここは、少し慎重に見たいところです。

一方、宮地佐一郎氏は、
この戦場での経験が、
のちの薩長和解の構想につながったとも述べています。

『殉難録稿』の記述に従えば、

慎太郎は鳥居さんの旅寓で
薩摩方の真意を改めて探ったことになります。


八月十八日の政変から禁門の変へ。
薩長の対立は決定的に見えました。


それでも薩摩の目的は、長州を滅ぼすことではなく、
朝廷を守ることにある。
ならば、まだ和解の余地はある。


慎太郎はこの戦場で、そう考えたのではないか――
そんな見方です。

西郷と本当に会ったのかは、
いったん横へ置きましょう。

中岡慎太郎は撃たれても、ただ逃げない。 

人脈と土地勘を使って敵方へ入り、
そこで周囲の情報まで探る。

この情報探索力。 胆力。 インテリジェンス。
……幕末の諜報員みたいで、めちゃくちゃカッコいい。

■まとめ:幕末のイノベーター・慎太郎の胆力

元治元年の慎太郎は
高杉晋作と島津久光襲撃計画を立ち上げ、
薩摩藩士だらけの私塾へ潜入し、

長州軍として禁門の変を戦い、
怪我をしたら薩摩方へ助けを求めました。

普通なら「それ、大丈夫?」と思うような場面でも、
慎太郎はあまり迷っているように見えません。

必要だからやる。ただ、それだけ。
思考のミニマリストですか。


土佐ラジオでは「中岡きも太郎」と呼びました。
冗談です。斬り捨てないで。

けれど、実際の慎太郎の肝っ玉っぷりを見ていると、
肝太郎というあだ名も案外ぴったりでしょう?

▼元治元年の過激な慎太郎シリーズ

●島津久光襲撃計画
マンガで読める!高杉晋作と密かに企てた「島津久光襲撃計画」の物語です。

​中岡慎太郎と高杉晋作の島津久光襲撃計画|未遂に終わった若き日の過激エピソード

1864年、京都で中岡慎太郎と高杉晋作が密かに企てた「島津久光襲撃計画」。なぜ若き二人は薩摩の国父を狙ったのか?久坂玄瑞に秘匿された作戦の背景や未遂の理由を、マン…

●中沼了三塾へ潜入
久光襲撃と同時進行、まさかのスパイ大作戦!?慎太郎の潜入の裏側に迫ります!

西郷隆盛を調査せよ!阿波人を詐称して「中沼了三塾」へ潜入した中岡慎太郎のスパイ大作戦

元治元年春、中岡慎太郎が西郷隆盛の動向を探るため、薩摩藩士の集まる京都の「中沼了三塾」へスパイ潜入!「阿波人の西山頼作」と偽名を名乗るも、お国訛りで即バレ!?…

​■この頃の慎太郎、まだまだあります

​禁門の変で負傷し、なぜか薩摩方の家へ転がり込んだ慎太郎。

では、その前後には何をしていたのか?
そして同じ頃、龍馬はどこで何をしていたのか?

脱藩後から薩長同盟成立前まで、
まだ何者でもなかった二人の「どん底期」を比較しながら、
龍馬&慎太郎が土佐弁トークします🎤

【徹底比較】龍馬と慎太郎が英雄になる前の知られざる『どん底期』


\ 最新情報をチェック /