西郷隆盛を調査せよ!阿波人を詐称して「中沼了三塾」へ潜入した中岡慎太郎のスパイ大作戦

前回の記事でお届けした「島津久光襲撃計画」とほぼ同時期、
元治元年(1864年)春のお話。
薩摩の国父・久光の首は狙えなかったけれど、我らが中岡慎太郎は決して諦めていませんでした!
次なるターゲット(調査対象)に定めたのは、当時、薩摩藩のキーマンとして頭角を現しつつあった西郷吉之助(隆盛)。
西郷の動向を探り、薩摩の本音を暴くため、
慎太郎は前代未聞の「スパイ大作戦」を決行します。
それは、
「徳島県民(阿波人)」になりすまして、
薩摩藩士が多く集まる京都の「中沼了三塾」へ潜入するという、
なんとも大胆不敵な計画でした。
変名(偽名)を使い、
完璧に変装して潜入を試みた慎太郎。
しかし、塾の門を叩いた瞬間に、
まさかの大ピンチが待ち受けていました……!?
歴史の教科書には絶対に載らない、
中岡慎太郎の知られざる変装・潜入エピソード。
まずは「漫画」から、
その爆笑(?)の一部始終を体感してください!
まずは4コマでチェック|中岡慎太郎の偽名「西山頼作」即バレ事件簿

※『殉難録稿 五十五、中岡道正』を愉快に再現した、ちゅう乃による生成画像フィックション漫画です🐭
なぜ慎太郎は「中沼塾」へ潜入したのか?
島津久光は憎い、でも西郷隆盛には期待大!

公武合体派の巨頭である島津久光に対しては、
暗殺計画を立てるほど激しい敵意を抱いていた慎太郎。
しかし同じ薩摩藩の中に、
彼が大きな期待を寄せていた人物がいました。
それが、のちに薩長同盟のパートナーとなる西郷吉之助(隆盛)です。
当時の西郷は、久光の進める「公武合体」とは距離を置き、
幕府に対抗する「抗幕」寄りの人物として知られていました。
久光と意見が合わなかった西郷は沖永良部島へ流されており、
慎太郎はその西郷の動向に強い関心を寄せていました。
そんな中、元治元年(1864年)3月、
島流しを解かれた西郷が、
京都へ向けて鹿児島を出発したという知らせが入ります。
西郷は3月19日に「軍賦役」という薩摩藩の重職に新任し、
いよいよ表舞台に戻ってくることになったのです。
「何としても西郷の動向を探り、その本音に近づきたい――」
久光襲撃に失敗した慎太郎の目は、
静かに、しかしギラギラと次の一手を見据えていました。
あの古高俊太郎へ送った極秘の手紙
西郷が京都にやってくる。
その情報を掴んだ慎太郎が、さっそく動きます。
アプローチの足がかりとして目をつけたのが、
京都の烏丸(からすま)に塾を構える儒学者・中沼了三(なかぬまりょうぞう)でした。
この中沼塾には、薩摩の藩士たちが多く出入りしていたのです。
「中沼塾に近づけば、西郷の情報が掴めるかもしれない」
そう考えた慎太郎は、のちに新選組に捕縛され、
あの池田屋事件の引き金となる桝屋(古高)俊太郎へ、3月17日付で一通の極秘の手紙を送りました。
■ 慎太郎の極秘手紙を現代語訳してみた!

慎太郎が「石川」という変名を使って送った手紙の、現代語訳がこちらです。
「昨夜は失礼いたしました。
さて、お話にあった大島三右衛門(西郷吉之助)のことですが、すでに京都へ着いたと聞きました。
私の方から中沼の周辺を探索しようかとも思いましたが、
まだ面識のない相手なので、
突然押し掛けるのはよろしくないと考えています。
何ともお手数をおかけしますが、どうか急ぎ、
中沼の周辺を探索していただけないでしょうか。
ひとえにお願い申し上げます。」
※手紙にある「大島三右衛門」とは、当時の西郷隆盛の変名です。
過激なのに礼儀正しい?手紙に見える慎太郎のリアル
つまり慎太郎は、
「自分でいきなり中沼へ近づくのは危ない。
だから古高さん、申し訳ないけど先に探ってくれませんか」と、
かなり丁寧に頼んでいるんです。
この手紙にも、慎太郎の性格がよく出ていますよね。
急ぎたい、探りたい、西郷の動向を知りたい。
でも、「知らない相手にいきなり突っ込むのはよくない」と冷静に判断している。
しかも古高さんへの頼み方がめちゃくちゃ丁寧!
島津久光の暗殺計画を立てるほどの過激さを持つ一方で、
現場での動き方はじつに現実的で礼儀正しいんですよね。
しかし、作戦変更!ついに「スパイ潜入」へ

ただし、残念ながら今回は、
志士たちの強力なネットワークを持つ古高さんでも、中沼塾の探索はできなかったようです。
「他人に頼めないなら、もう自分でいくしかない……!」
こうして慎太郎は、未知の中沼塾へ自ら乗り込む「スパイ潜入大作戦」を決行することにしたのでした。
「阿波人の西山です!」一瞬で見破られた潜入工作
お国訛りが違う!?中沼親子の鋭いツッコミ

古高俊太郎への依頼が不発に終わり、
ついに自ら京都の烏丸にある「中沼了三塾」への突撃を決意した慎太郎。
完璧(なつもり)の変装を施し、いざ門を叩きます。
「阿州(徳島県)の者、西山頼作と申します。どうか入塾させてください!」
……が、塾主の中沼了三先生から鋭すぎる一言が飛んできました。
「いや、お主の訛り、阿波(徳島)じゃないだろ」
まさかの、秒速での即バレです(笑)
ここでちょっとしたミステリーがあります。
中沼了三先生は島根県の隠岐島出身。
天保14年から京都で開塾しており、
四国(徳島や土佐)とはあまり縁がなさそうなのです。

ちなみに私は福岡出身ですが、
熊本県民と長崎県民の訛りの違いに気づける自信はまったくありません🤣
なぜ了三先生は見抜けたのでしょうか……!?
さらに面白いことに、別の史料では「了三の息子の孝太郎が見抜いた」とも書かれています。
しかし、記録に残る了三の息子は清蔵、璉三郎、棟四郎の3人。
「孝太郎って誰!?」という謎まで浮上してきます🤣
中沼家との交流!慎太郎の「いいお兄ちゃん」な魅力

初手で大嘘をぶちかました慎太郎ですが、
この中沼塾の息子たちとはすぐに打ち解けてしまいます。
次男の清蔵が弘化2年(1845年)生まれなので、
三男の「璉三郎(れんざぶろう)」くんは、当時おそらく10代半ば。
当時26歳だった慎太郎にとっては、10歳ほど年下の可愛い弟のような存在でした。
この時よほど強烈なインパクトを残したのか、のちに大人になった璉三郎くんは、こんな微笑ましい思い出話を残しています。
「中岡とはいつも撃剱(剣術)をやった。あいつは小太刀の名人で、なかなか切り込めないほど強かったんだ」
10代半ばの少年を相手に格好いい技を見せて、一緒に汗を流す慎太郎――。
初対面で大嘘をついた怪しい不審者(笑)だったはずなのに、
いつの間にか塾の子供たちに慕われ、頼れる「楽しいお兄ちゃん」になってしまう。
慎太郎のコミュ力と人間的魅力、本当に底が知れませんよね!
参考:西川太治郎『長等の桜』(国立国会図書館デジタルコレクション)
バレた後の慎太郎の「必死の言い訳」と入塾許可

さて、門前で嘘がバレてしまった慎太郎。
絶体絶命のスパイ大作戦ですが、ここからの切り抜け方がまた慎太郎らしいのです。
幕末の志士たちの伝記が集められた『殉難録稿』には、当時の様子がこう記されています。
「了三心事を憐れみ、留めて之を塾に入れしかば」
(了三は彼の事情を憐れんで、そのまま入塾を許した)
「憐れみ」と書かれているあたり、もしかしたら嘘がバレた慎太郎は、
相当顔を真っ赤にしてひたすら恐縮し、平謝りしたのかもしれません。
いやいや、もしくは日本の未来を憂う自分の「本心」を、
心を尽くして必死に熱弁した可能性も十分考えられます。
ただ、慎太郎が書いた時勢論や、日頃の手紙を読んでいると
「びっくりするくらい自分を謙って、相手を立てる慎太郎」の姿がよく登場します。
あの腰の低さと誠実なペコペコ(?)を目の当たりにしたからこそ、
了三先生も「……よし、分かった」と、
怪しい脱藩浪士を匿うようなリスクを引き受けてくれたのではないでしょうか。
大嘘をついて入ってきた怪しい若者の「本気」を見抜き、
優しく受け入れてくれた中沼了三先生の器の大きさには、本当に頭が下がりますよね。
こうして、お国訛りのおかげで初手から大ズッコケした慎太郎のスパイ大作戦ですが、
先生の懐の深さによって、奇跡的に「入塾許可」という形でスタートを切ることになったのです。
【あわせて読みたい】
謙りすぎて逆に怖い!?三吉慎蔵に宛てた『アメリカ皮ワラジ』の手紙を解説!
※「そこまで低姿勢になる!?」とツッコミたくなる
慎太郎のギャップ萌え(?)な礼儀正しさが爆発したおもしろ手紙の解説はこちら!
結果はスパイ大作戦大成功!薩摩のキーマンたちと大親友に
昼はエリート塾生、夜は時事を探るスパイ

お国訛りで初手からズッコケしたものの、中沼了三先生の広い懐によって無事に入塾を許された慎太郎。
ここから彼の、見事な「二重生活」が始まります。
憂国志士の列伝である『殉難録稿』によると、慎太郎は
「昼は机に向かって勉強し、
夜になると密かに塾を抜け出して京都の町で時事(情勢)を探っていた」とあります。
じつは、前回の記事でご紹介した「高杉晋作との島津久光襲撃計画」と、
この中沼塾での二重生活は、時期が完全に丸かぶりしています!
慎太郎が「夜な夜な街に出て探っていた時事」の先には、
あの長州の風雲児・高杉晋作と闇夜に潜み、冷たい刃を研いでいた、
あのスリリングな夜が含まれていたのかもしれません。
【あわせて読みたい】
中岡慎太郎と高杉晋作の島津久光襲撃計画|未遂に終わった若き日の過激エピソード
※中沼塾でのスパイ活動と同時進行で進んでいた、もう一つの過激すぎる極秘計画の舞台裏はこちら!
中村半次郎(桐野利秋)や西郷従道との出会い

「西郷吉之助(隆盛)本人への接触」は、この時点では叶いませんでした。
しかし、慎太郎のスパイ大作戦は、結果として大・成・功を収めることになります。
中沼塾に潜入したことで、
慎太郎は薩摩藩の重要人物たちとのルート開拓に成功したのです。
その中には、のちに西郷隆盛の右腕(人斬り半次郎)となる中村半次郎(桐野利秋)や、
西郷の頼れる実弟・西郷従道(信吾)らがいました。
元治元年4月13日、慎太郎が彼ら薩摩の精鋭たちと接触している様子が、
同じ土佐出身の同志・山本頼蔵の日記『洛陽日記』に記録されています。
西郷本人には直接たどり着けなかったものの、そのカギを握る周辺調査と信頼関係の構築を、慎太郎は見事に成し遂げました。
この時につくった薩摩とのディープな人脈が伏線の1つとなり、
この年(元治元年)の12月、慎太郎はついに西郷隆盛本人との歴史的な対面を果たすことになるのです。
【オマケ漫画】なぜ土佐人とバレた?龍馬のツッコミぜよ🐉

徳島県民(阿波人)と高知県民(土佐人)の方言の違いといえば、
やっぱり語尾の「〜ぜよ」ですよね!?
(※本当は高知民は「ぜよ」って言わないらしいです)
そんな私(ちゅう乃)のツッコミと妄想を、
龍馬さんに代弁してもらった創作オマケ漫画です🐭
ちなみに漫画の中で、龍馬さんは「京都と奈良の訛りの違いなんてサッパリ分からん」と言っていますが、
これもまた私(奈良在住/福岡出身)のリアルな心の叫びだったりします。
まとめ:この「即バレ潜入」が薩摩とのつながりを作った

島津久光の暗殺を企て、阿波人を詐称して中沼了三塾へ潜入した、
元治元年(1864年)の中岡慎太郎。
脱藩からまだ半年も経っていない彼は、
まさに気炎を吐くように京都で動き回っていました。
なかなかのやんちゃぶり、これぞ世に聞く『過激な尊攘派』です。
けれど、この動きはただの暴走ではありませんでした。
久光への怒りを抱えながらも、西郷吉之助の動向を探り、
薩摩の人々とつながろうとしていた慎太郎。
その結果、中村半次郎や西郷従道ら、
薩摩の志士たちとの接点が生まれていきます。
薩摩を知り、薩摩の人とつながる経験は、
のちに慎太郎が薩長の間を周旋していくうえでも、
見逃せない「種」になっていきました。
そして、この3ヶ月後に起こる禁門の変でも、
長州方として参加していた慎太郎と薩摩とのつながりが、
意外な形で意味を持ってきます。
それはまた、次の記事で🐭👋✨
(近日公開!)
英雄になる前の二人は何をしてた?「土佐ラジオ10-2」でどん底期を聴く🎧
元治元年の慎太郎がどんな未来を見据え、どんな学びを得たのか――。
YouTube「土佐ラジオ10-2」では、
今回のエピソードの背景にある、龍馬と慎太郎が英雄として覚醒する前の
知られざる「どん底期」を徹底比較しながら熱く語っています!
「失敗だらけの若き日」があったからこそ、二人は時代を動かす存在になっていく。
記事のマンガを読んだあとは、ぜひ動画の熱いトークもお楽しみください!
📻 [土佐ラジオ10-2:【徹底比較】龍馬と慎太郎が英雄になる前の知られざる『どん底期』を視聴する]

