陸援隊とは?中岡慎太郎が率いた討幕部隊をわかりやすく解説

陸援隊とは、慶応3年(1867)に中岡慎太郎を隊長として結成された、武力討幕に備える土佐藩の軍事組織です。
「坂本龍馬の海援隊は聞いたことある。でも陸援隊って何?」 という方も多いのではないでしょうか。
名前からして、海援隊の陸バージョンっぽい。だいたい合っています。
ただし、実際には役割や性格はかなり違います。
30秒で分かる陸援隊
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 結成 | 慶応3年(1867) |
| 隊長 | 中岡慎太郎 |
| 立場 | 土佐藩の遊軍 |
| 本拠地 | 京都・白川村 |
| 主な目的 | 浪士の保護・統制、討幕に向けた挙兵準備 |
| 主な活動 | 情報収集・遊説・洋式銃隊の調練など |
| 隊士 | 土佐出身者を中心に、水戸・三河・肥後・薩摩など各地の浪士 |
| 人数 | 名簿上 約50名※ |
| 屯所 | 白川村の土佐藩邸(現在の京都大学周辺) |
| 関連組織 | 坂本龍馬の海援隊 |
※隊士数は時期によって増減します。
中岡慎太郎が京都の浪士たちを集め、守り、まとめ、鍛え、いざというときには薩長と呼応して挙兵するためにつくった討幕部隊です。
陸援隊は何をする組織だった?

では、陸援隊はいったい何をする集団だったのでしょうか。
彼らは京都を拠点に、討幕に向けて浪士たちを集めて編成された組織です。
幕末というと、新撰組が危険な浪士たちをバッタバタとやっつけているイメージがありませんか。
当時の京都では、新撰組や見廻組による浪士への探索も厳しくなっていました。
町家などに身を寄せる浪士たちは、いつ踏み込まれるか分からず、一日たりとも油断できない状況だったといいます。
そこで慎太郎は、各所にいた浪士たちを一か所に集めました。
彼らの安全を守る。
統制のとれた一つの集団にする。
そして、いざというときには薩摩・長州と呼応して兵を挙げる。
これが陸援隊です。参加したのは土佐の脱藩浪士だけではありません。
土佐出身者が最も多かったものの、水戸、三河、肥後、薩摩、京都など、さまざまな地域から人が集まっていました。
また、薩摩の兵学家・鈴木武五郎が白川を訪れ、洋式の銃隊訓練を教えることもありました。
決してステレオタイプな「刀を振り回す侍集団」ではありません。
陸援隊には、組織の決まりである「約規」も残されています。
そこを見ると、彼らが何を目的に集まり、何をしようとしていたのかが見えてきます。
この約規が、なかなか面白い。というか、めちゃくちゃカッコイイ。
天下ノ動静変化ヲ観、
諸藩ノ強弱ヲ察シ、
内応外援、控制変化、
遊説間蝶等ノ事ヲ為ス。
「陸援隊約規」
ただ武力を振りかざすだけの集団ではありません。天下の動きを見て、各藩の情勢を探り、場合によっては間諜もする。
インテリジェンス!
浪士たちを守り、まとめ、鍛える。そして、いざというときには討幕のために動く。
陸援隊は、慎太郎を中心に編成された武力討幕の実働部隊だったのです。
陸援隊の隊長は中岡慎太郎

陸援隊の隊長を務めたのが、中岡慎太郎です。
坂本龍馬とともに薩摩と長州の間を周旋した人物として紹介されることが多い慎太郎。
ですが、この人、そもそも各地でずっと「まとめ役」をやっています。
土佐にいる頃には五十人組の伍長。脱藩して長州へ行くと、招賢閣の会議員、忠勇隊の二代目隊長。
行く先々で、人をまとめる側に回っています。
さらに慎太郎は、武力によって幕府を倒す必要があると考えていました。
『時勢論』では、国を強くするための武備や士気について論じ、こう書いています。
富国強兵は戦の一字にあり
中岡慎太郎「時勢論」より
慎太郎は、富国強兵のためには「戦」が必要だと考えていたのです。
そんな慎太郎が、京都で浪士たちを集め、討幕に備える陸援隊の隊長になる。
しかも、そこに集められたのは、藩の後ろ盾を失った浪士たち。
ただ命令するだけではなく、 彼らをまとめ、暮らしを支え、ひとつの部隊として動かしていく。
陸援隊は、慎太郎の思想と、それまで積み重ねてきた人脈や経験が、ひとつの形になったような組織です。
討幕を目指す思想家であり、各地をつなぐ周旋家であり、人をまとめる隊長でもある。
中岡慎太郎、頼れる人です。ほら、あつまれ浪士たち!
陸援隊にはどんな人がいた?

残された名簿には約50名の名前がありますが、時期によって隊士は増減しており、慎太郎の死後に加わった人物も含まれています。
『陸援隊始末記』では田中光顕、木村弁之進、香川敬三、大橋慎三の4人が幹部として挙げられています。
ここではその中から3人+個人的に紹介したい中島作太郎を見てみます。
■田中光顕

土佐藩出身。初名は浜田辰弥。
志士として活動していたころは、田中顕助と名乗っていました。
慶応元年、慎太郎が薩長和解のために走り回っていたころからの付き合いです。
陸援隊では幹部を務め、慎太郎が亡くなると陸援隊を率いて高野山挙兵を行っています。
後年に残した回顧談では、光顕本人のエピソードは小粒すぎて可愛らしいです。
■大橋慎三(橋本鉄猪)
土佐藩出身。田中光顕とも仲良しです。慎太郎に岩倉具視を紹介したのが、彼です。
光顕、鉄猪、片岡源馬の陸援隊士3人で撮った写真も残っています。
ワイルドな片肌脱ぎに、鋭い目つき。 かなり印象に残る一枚です。
■香川敬三
水戸藩出身。陸援隊の幹部の一人です。
香川もまた岩倉具視と親しい間柄で、慎太郎が岩倉に宛てた手紙などにも名前が登場します。
土佐出身者が多い陸援隊の中で、水戸出身の幹部というのも面白いところです。
■中島作太郎(信行)

土佐藩出身。
作太郎はもともと海援隊士で、いろは丸沈没事件の賠償問題でも奔走しています。
慎太郎の日記にも何度か名前が登場します。そして出てきたと思ったら、一緒に飲みに行っています。
慎太郎の死後には陸援隊にも加わりました。海援隊にも陸援隊にも入っている。
めちゃくちゃうらやましい男。
なお、入隊希望者には選考まであり、幹部たちの上申を受けて土佐藩側が採否を決めていました。
意外とちゃんとしてる。
……と思ったら、陸援隊には思いきり新撰組の密偵まで入り込んでいたようです。
こら!
海援隊と陸援隊は何が違う?

名前だけ見ると、「海援隊は海、陸援隊は陸」で分かりやすい。実際、そのイメージはだいたい合っています。
| 🌊海援隊 | 🔥陸援隊 | |
|---|---|---|
| 隊長 | 坂本龍馬 | 中岡慎太郎 |
| 目指したもの | 海から国を動かす | 陸から討幕に備える |
| 主な活動 | 海運・貿易・船や武器の調達 | 志士の結集・情報収集・軍備 |
| 本拠地 | 長崎 | 京都・白川 |
| 人数 | 名簿上 約50名 | 名簿上 約50名※ |
※隊士の人数は時期によって増減があります。
武力による討幕を急ぐ中岡慎太郎と、大政奉還による政権返上を重視した坂本龍馬。
海援隊は、戦闘を主目的とした部隊ではなく、海運や貿易、武器の調達などを通じて動く組織でした。
一方の陸援隊は、京都で志士を集め、情報を集め、武力討幕に備える。
同じ土佐藩のもとに生まれた二つの「援隊」ですが、慎太郎と龍馬、それぞれの考え方が組織の性格にもよく表れています。
そしてこの二つの隊を、設立に深く関わった福岡孝悌は「翔天隊」と呼んでいます。
今後海陸を合せ号して
翔天隊と云ん。
「福岡孝悌手録」より
海と陸を合わせて、翔天隊。
性格の違う海援隊と陸援隊は、バラバラなのではなく、互いに補い合う存在になるはずだったのかもしれません。
▼真逆な龍馬と慎太郎を徹底比較!海援隊と陸援隊の違いを動画で見る
※「海援隊と陸援隊」の該当シーンから始まります。
陸援隊の屯所と、隊士たちの日常
■陸援隊の屯所は、現在の京都大学
慶応3年7月27日、慎太郎は白川にあった土佐藩邸を陸援隊の屯所として使う許可を得ます。
そして7月29日、柳馬場の寓居から白川へ移りました。
慶応三年七月二十九日
「朝白川邸に移る。
著到十一人、是より追々着」
中岡慎太郎「行行筆記」より
最初に集まったのは11人。ここから少しずつ、陸援隊の仲間が増えていきました。
では、その場所は現在どうなっているのでしょうか。
京都大学です。
まさかの日本屈指の最高学府。
現在、賢い学生たちが集まるキャンパスの一角には、幕末のころ、血気盛んな陸援隊士たちが集まっていました。
私は実際に現地も歩いてきました。屯所がどのあたりにあったのか、現在どんな場所になっているのかについては、別の記事で詳しく紹介します。
▼京都大学が討幕派のアジト!?「陸援隊屯所」跡を探してみた
(近日公開!)
■陸援隊の人たちは、どんな暮らしをしていた?
現在は京都大学ですが、幕末には討幕を夢見る若者たちがここで暮らしていました。
陸援隊の活動期間は短く、残された史料も多くありません。
それでも、西洋式の銃を使って調練していたことなどは、隊長・中岡慎太郎の日記にも記されています。
では、どんな部屋で暮らし、何を食べ、どんな毎日を送っていたのでしょうか。
▼もっと知りたい!陸援隊の暮らし。ヤンチャすぎる隊士たちのエピソード
(近日公開予定!)
■隊長と陸援隊士、普通に京都を歩く
武力討幕を唱え、「富国強兵は戦の一字にあり」とまで書いた中岡慎太郎。
そんな慎太郎にも、こんな一日がありました。
慶応三年八月二十一日
「同。午後鹿谷、銀閣寺、詩仙堂へ行」
中岡慎太郎「行行筆記」より
さらっと書いてありますが、田中光顕の日記にも同じ日の記録があり、陸援隊士三人で京都の東山方面を歩いた様子がうかがえます。
良かった。
慎太郎にも、こんな時間がありました。
……いや、本人が楽しかったのかどうかは、日記からは微塵も分かりませんけども。
なお、この散歩コース、現代でも普通におすすめの京都観光コースです。
私も歩いてみました。
▼陸援隊のさんぽコースは京都観光にも最適!銀閣寺も満喫する東山観光
(近日公開)
陸援隊について、よくある質問
■陸援隊を率いたのは誰?
中岡慎太郎です。
慶応3年(1867)、京都を拠点とする陸援隊の隊長となりました。陸援隊長としては「横山勘蔵」という変名も使っています。
■陸援隊は何をする組織?
政局の変化に備えて京都で活動した、軍事的な性格を持つ組織です。京都に点在していた浪士たちを集めて安全を守り、統制のとれた集団にしたうえで、いざというときには薩摩・長州と呼応して挙兵することを目的としていました。また、情報収集や遊説、洋式銃による調練なども行っていました。
■海援隊とは何が違う?
坂本龍馬の海援隊は長崎を拠点に、航海・運輸・交易など海を使った活動を行いました。陸援隊は京都を拠点とし、より軍事的な活動を強く意識した組織でした。
ただし、両隊とも政治活動や周旋を行っており、「海と陸」だけで完全に分けられるものではありません。
■陸援隊の屯所はどこ?
当時の京都・白川村です。
現在では京都大学の構内・周辺にあたります。
■陸援隊は土佐藩の組織なの?
はい。陸援隊は、土佐藩の「遊軍」としてつくられた組織です。
慶応3年(1867)、後藤象二郎や福岡孝弟ら土佐藩の重役が関わり、坂本龍馬が海援隊、中岡慎太郎が陸援隊の隊長となりました。
ただし、一般的な藩兵とは少し違います。
陸援隊は土佐の浪士たちなどを集めて編成され、京都にいた土佐藩の役人のもとに置かれました。
土佐藩の支援を受けながら、比較的自由に動ける「遊軍」だった、と考えると分かりやすいです。
まとめ 陸援隊は「海援隊の陸版」だけではない

陸援隊を追ってみると、単なる「海援隊の陸版」ではありません。
中岡慎太郎という人が、それまで積み重ねてきたものが形になったような組織に見えてきます。
各地で人をまとめ、人をつなぎ、情報を集め、そして武力討幕を目指してきた慎太郎。
そんな慎太郎が、京都にいた浪士たちを集め、一つの部隊をつくりました。
一方には坂本龍馬の海援隊。
一方には中岡慎太郎の陸援隊。
福岡孝悌が二つを合わせて「翔天隊」と呼んだように、性格の違う二つの隊は、これから互いに補い合いながら動いていくはずでした。
でも、その時間はあまりにも短かった。
海援隊が始まったのは四月。陸援隊が動き始めたのは七月。
そして二人の隊長を喪ったのは、十一月のことでした。
もっともっと見たかった。
そして最後に、私の夢を聞いてください。
屈強な陸援隊士になって、隊長を胴上げしたい。
まずは洋式銃の調練からでしょうか。
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