中岡慎太郎と陸援隊の京都さんぽ|法然院・銀閣寺・詩仙堂を日記で巡る

中岡慎太郎と陸援隊の京都さんぽのアイキャッチ。法然院の茅葺屋根と中岡慎太郎の写真を組み合わせたデザイン。

幕末、慶応3年。
中岡慎太郎が率いた陸援隊は、討幕に備えて京都・白川村に集まっていました。

とはいえ、毎日鉄砲を撃っていたわけではありません。
中岡慎太郎と田中光顕の日記には、法然院、銀閣寺、詩仙堂を訪れた記録があります。

……陸援隊、京都観光してる。
せっかくなので令和の私も、同じ場所を巡ってきました。

ただし徒歩ではありません。
レンタサイクルです。
隊長、文明の利器をお許しください。

🐭ポイント💡

法然院と銀閣寺に比べると、詩仙堂だけ少し離れています。
なぜ、慎太郎たちはここまで足を延ばしたのか。
現地で、ちょっと胸に刺さるものを見つけました。

30秒で分かる「陸援隊さんぽ」

項目内容
出発陸援隊屯所(現在の京都大学北部構内付近)
ゆかり中岡慎太郎・田中光顕
記録慶応3年の日記
主な場所法然院・銀閣寺・詩仙堂
令和の移動レンタサイクル
寄り道大文字山
見どころ庭園・幕末史・絶景
最後京都大学へ戻れば陸援隊(※なれません)

陸援隊の日記に残る京都さんぽ

慶応3年8月21日。
陸援隊隊長・中岡慎太郎の日記には、こんな一日がさらっと記されています。

「慶応三年八月二十一日。同。
 午後鹿谷、銀閣寺、詩仙堂へ行」

(中岡慎太郎「行行筆記」より)

同じ日。
陸援隊幹部・田中光顕の日記には、もう少し詳しく記されています。

「八月二十一日
 石川、木村と共に鹿ヶ谷法然山に至り、
 銀閣寺に行一見、詩仙堂に行夕方帰る」

(田中光顕「丁卯日記」より)

「石川」とは、中岡慎太郎の変名「石川清之助」のこと。
もう一人の「木村」は、陸援隊士・木村弁之進です。

旧暦8月21日は、新暦では9月18日。
秋の午後、陸援隊の三人組で京都をさんぽしているではありませんか。

中岡慎太郎と陸援隊の日記をもとに、京都大学付近から法然院・銀閣寺・詩仙堂を巡る散策ルートを示したGoogleマップ。徒歩約6.4km。

出発地点となる陸援隊屯所は、現在の京都大学北部構内付近。

そこから、
法然院 → 銀閣寺 → 詩仙堂と巡っています。
さらに屯所まで帰ると、全行程およそ6.4km。徒歩なら約1時間30分です。
※Googleマップの経路検索による移動時間。拝観時間は含みません。

しかも、光顕の日記には最後にさらっと、
「夕方帰る」とあります。

帰るんです。

寺を三つ巡って、ちゃんと屯所まで帰る。
討幕に燃える幕末の若者、足腰もつよい。

まずは法然院|静かな庭から陸援隊さんぽ開始

京都・法然院の入口に立つ「法然院」の石碑と、手に持った中岡慎太郎の写真入りキーホルダー。

陸援隊の三人が最初に訪れたのは、京都・東山の「哲学の道」から少し山側に入ったところにある「法然院(ほうねんいん)」です。
日記には「鹿谷」や「法然山」と書かれています。

京都・法然院の苔むした茅葺屋根の山門と、手前に掲げた笑顔の中岡慎太郎の写真入りキーホルダー。

ご覧ください。とても趣のある、苔むした茅葺の山門です。
中岡慎太郎隊長の生家も、茅葺屋根のおうち。これには写真の隊長もにっこりです。

ここは、うっそうとした緑と苔に包まれた、非常に静かで佇まいの美しい名刹です。
哲学の道や銀閣寺がすぐそばにあるというのに、中へ入るとまるで別世界。

京都・法然院の境内に続く石畳の道と苔の庭園。手前には中岡慎太郎の写真入りキーホルダー。

境内は無料で拝観できます。
春と秋には本堂の特別公開があり、御朱印がいただけるのも特別公開の時期です。

京都・法然院の参道に並ぶ白砂壇(びゃくさだん)と苔むした茅葺の山門。周囲を緑豊かな木々が囲む。

この美しい庭を見て、中岡慎太郎たちは何を思ったのでしょうか?
せっかく陸援隊の足跡を追っているので、私も軍事目線で探索しました。

――各所に入口があるため、敵兵の侵入は容易と思われます。
第2の屯所には向いていないようです。

銀閣寺|慎太郎たちも歩いた京都の定番

銀閣寺は、法然院から徒歩およそ5分。哲学の道を歩くと雰囲気は良いでしょう。
ただし、今の哲学の道に沿う琵琶湖疏水分線が完成したのは明治23年。幕末にはまだありません。

そこで私は、法然院通りを通って銀閣寺へ向かいました。
こちらの通りは、法然院から銀閣寺を結ぶ最短ルートです。

慎太郎たち陸援隊三人組も、おそらくこちらを通ったのではないでしょうか。

京都・法然院通りをレンタサイクルで走る様子。竹垣と緑に囲まれた道を銀閣寺方面へ進む。

彼らの足跡を探しながら、こちらは自転車で華麗に参ります。自転車なら3分ほどで到着です。

京都・銀閣寺(慈照寺)の史蹟及名勝を示す石碑と、手に持った中岡慎太郎の写真入りキーホルダー。

令和でも大人気の銀閣寺。
私たちが観光しているこの場所を、幕末に生きた陸援隊の若者たちも歩いていました。

彼らも「銀閣寺なのに、銀色じゃない!」なんて笑ったのでしょうか。

■令和の寄り道、大文字山へ

駐輪場は、銀閣寺の北側にある場所を使いました。いかにも「裏手」という感じで、お店もなにもありません。
それなのに、やたらと人が奥からやってきます。

なんとその道は、京都の風物詩「五山送り火」で「大」の字を灯す、大文字山の登山口だったのです。

駐輪場で出会った人に尋ねると「30分ほど登ると『大』の字を焼く場所に着きます。そこからの景色は感動ですよ」と笑顔で教えてくださいました。
完全に寄り道です。慶応三年八月二十一日の中岡慎太郎は登っていません。

レンタサイクルのおかげで時間的余裕がありましたから、調子に乗って登ってみました。

京都・大文字山の火床付近から見渡す京都市街の大パノラマ。青空と山並みの下に町並みが広がる。

片道30分と言っても途中から足があがらなくなり、日頃の運動不足を痛感しました。

京都・大文字山の登山道。木々に囲まれた山道に長い階段が続き、火床へ向かって登っていく。

途中からは怨みがましい声で
🐭「慎太郎さんのお墓がある霊山からの眺めと、そんなに変わんないんじゃないの……」と息も絶え絶えだった私。

京都・大文字山の火床付近から望む京都市街の絶景と、手に持った笑顔の中岡慎太郎の写真入りキーホルダー。

霊山よりずっと高い場所から、慎太郎たちが奔走した京都の町を一気に見渡せます。
さっきまで「霊山とそんなに変わらないのでは」と悪態をついていた私ですが、登って良かったです。

■大文字山のふもとに中沼了三先生

しかも!登山口で、思いがけない人に出会いました。

大文字山登山口付近にある中沼了三の講書之邸址碑と、手に持った中岡慎太郎の写真入りキーホルダー。

石碑には、「贈正五位 中沼先生 講書之邸址」とあります。
贈正五位の中沼先生と言えば――

中沼了三先生です!

中岡慎太郎が徳島県民のふりをして潜入をはかった儒学者の先生です。

ただし、ここは慎太郎が潜入した幕末の中沼塾ではありません。
慎太郎が通った私塾は、京都御所の南にありました。

一方、中沼了三は明治維新後、晩年にはこの浄土寺村で暮らし、明治29年(1896)に亡くなっています。

つまり私は、慎太郎の先生の、後年のゆかりの地に偶然たどり着いていました。
大文字山へは完全なる寄り道だったのに、慎太郎ゆかりの人がニョキッと現れてくれました。

正直、これだけでも登って良かったです。
ちなみに石碑は登山口付近にあるので、ここを見るだけなら山を登らなくても大丈夫です。

なぜ詩仙堂まで?ちょっと離れている

中岡慎太郎たちが訪れた3か所のうち、法然院と銀閣寺はすぐ近くにあります。

けれど、詩仙堂だけ少し離れている。

銀閣寺から約2.6km。徒歩なら40分弱です。
法然院と銀閣寺の近さに比べると、詩仙堂だけは明らかに足を延ばしています。

どうして、わざわざ詩仙堂まで向かったのでしょうか。

■銀閣寺近くに「詩仙堂」の道標があるけれど……

銀閣寺のあとに詩仙堂に行きたくなる可能性、その1。
銀閣寺から、陸援隊屯所に向かって歩く道に「石川丈山先生旧蹟詩仙堂 道標」が建っています。

京都・銀閣寺近くに建つ、石川丈山ゆかりの詩仙堂を案内する石造りの道標。大正時代に建立されたもの。

秋の午後、時間があまった慎太郎たちが道標を見て「行ってみよう!」と盛り上がったかもしれません。

銀閣寺近くにある詩仙堂道標の側面。大正時代の建立に関する文字が刻まれた石碑の拡大写真。

しかし現地で道標を見てみると、大正時代に建立されてました。
慎太郎は見てない。解散。

■漢詩好きだから?石川丈山と慎太郎

銀閣寺のあとに詩仙堂に行きたくなる可能性、その2。

京都・詩仙堂の詩仙の間。室内の上部に中国の三十六詩人の肖像と漢詩が掲げられ、襖や扇形の装飾が見える。

詩仙堂は、漢詩人・石川丈山が晩年の住まいとして造営した山荘です。現在は曹洞宗の寺院となっています。
しかも「詩仙堂」という名前そのものが、中国の三十六詩人の肖像と漢詩を掲げた「詩仙の間」に由来しています。

杜甫の詩集を買い、日常的に漢詩を詠んでいた慎太郎。漢詩好きなら、詩仙堂そのものに興味を持った可能性はありそうです。

そして、もう一つ。
慎太郎は当時、「石川清之助」という変名も使っていました。

「石川丈山……石川清之助……隊長の親戚ですか!?」 
「いんや、わしゃ今、横山じゃ」
──そんな会話で盛り上がる姿が、私の脳内に浮かんできます。

陸援隊隊長としては「横山勘蔵」と名乗っていた中岡慎太郎。
石川という名字に、ほんの少しシンパシーを感じた可能性は……ゼロとは言い切れません。

とはいえ、漢詩と「石川」だけで、わざわざ詩仙堂まで足を延ばしたのでしょうか。
もう少し手がかりがないものか。道中も探しながら進みます。

京都・一乗寺下り松の史跡。宮本武蔵と吉岡一門の決闘伝説が残る場所に建つ石碑と案内板。

案内によると、平安時代から旅人の目印だったそうです。ここはちょうど詩仙堂へ向かう曲がり道にあります。これなら幕末の慎太郎たちも目印にしていそうです。
しかも、剣豪・宮本武蔵の伝説が残る史跡がありました。でもこちらの石碑も、大正時代に建てられたもの。

また大正時代です。

大正に石碑建立ブームでも起きたのでしょうか。
結局、道中に手がかりはないまま、詩仙堂へたどり着きました。

京都・詩仙堂の竹垣に囲まれた入口と石段。手前には中岡慎太郎の写真入りキーホルダー。

詩仙堂で出会った、久坂玄瑞と寺島忠三郎

中岡慎太郎の写真入りキーホルダーを手前に掲げた写真。背景には京都・詩仙堂の木造の門がぼかして写っている。

詩仙堂では、慎太郎たちはどんな話で盛り上がったのだろう。
土佐から来た修学旅行生のような三人組を想像しながら、私はゴキゲンで門を潜りました。

受付から右手に入ると──

京都・詩仙堂に祀られた長州藩士・久坂玄瑞と寺島忠三郎の位牌。ガラスケースに収められ、下に解説板が置かれている。

そこに、久坂玄瑞と寺島忠三郎の位牌がありました。
禁門の変で亡くなった二人です。

京都・詩仙堂にある久坂玄瑞と寺島忠三郎の位牌についての解説板。禁門の変で亡くなった二人の生涯と埋葬に関する伝承を紹介している。

案内によると、諸説あるそうですが、久坂玄瑞と寺島忠三郎は一時的にこの詩仙堂に葬られ、現在は位牌が祀られているとのこと。

そんなこと、慎太郎も光顕も日記に書いていません。
詩仙堂のホームページやパンフレットにも書いていません。

まさかここに、久坂玄瑞たちが葬られていたなんて。

──漢詩が好きだから?
──同じ「石川」だから?
それまで面白がって考えていた「なぜ詩仙堂へ?」という疑問が、そこで急に静かなものへ変わりました。

日記には、詩仙堂を訪れた理由までは書かれていません。
けれど、久坂玄瑞と寺島忠三郎の位牌を目の前にした瞬間、私は思ってしまいました。

もしかして慎太郎たちは、彼らの冥福を祈るために、ここまで足を延ばしたのではないかと。

中岡慎太郎にとって久坂玄瑞とは

慎太郎にとって、久坂玄瑞は「知り合いの長州人」や「有名な志士」のような遠い存在ではありません。 

まだ慎太郎が脱藩する前の文久2年(1862)には、共に佐久間象山を訪ねました。
水戸から信州までの旅をして、象山の知識に圧倒されて、「まいった」と顔を見合わせた思い出があります。

禁門の変を前に、慎太郎は久坂玄瑞らが陣を敷いていた山崎へもやって来ました。
そこで京都の緊迫した状況を伝え、それを受けて久坂ら山崎陣営が対応を協議した記録も残っています。

久坂が命を落とす禁門の変を前に、慎太郎は彼と直接会っていたんです。

そして久坂が亡くなったあと、慶応年間に慎太郎が記した「時勢論」。
ここには、何度も久坂玄瑞の名前が登場します。

特に最後の「時勢論」では、久坂が記した『回瀾条議』や『解腕痴言』を取り上げています。
久坂自身の考え方がどう変わっていったのかをたどりながら、理想を語るだけではなく実行へ移ること、言葉だけではなく行動することの大切さを説いているのです。

そして、同じくその頃には亡くなっていた高杉晋作についても記し、次のように続けます。

嗚呼、両士已に去る。
復た両士に對して今日の事を議する事能はず。
然りと雖も幸に其の言に因て、聊か今日の治論を助くるに足る。
(中岡慎太郎「時勢論 論策4」慶応三年夏)

「ああ、二人はもういない。もう二人と、今のことを議論することはできない」
そんな言葉から始まります。慎太郎は久坂玄瑞と高杉晋作を失い、もう彼らと語り合えないことを惜しんでいます。

けれど、それで終わりではありません。

二人が遺した言葉と行動は、今の世をどうしていくべきか考える助けになる。
慎太郎は、そう続けました。

久坂玄瑞の言葉と行動は、彼の死後も、慎太郎が自分の考えを組み立てる支えになっていたことがうかがえます。

現代の私たちが歴史上の人物の言葉から学ぶように、慎太郎もまた、亡くなった久坂たちから学んでいた。

つまり私からすると、

私の推しは中岡慎太郎。
中岡慎太郎の推しは久坂玄瑞や高杉晋作。

そう見えるわけです。

諸説みとめます。

亡くなった人を忘れなかった田中光顕

陸援隊士・田中光顕の横向きの史実写真
画像出典:Wikimedia Commons「Tanaka Mituaki」

この陸援隊さんぽを日記に残した田中光顕。
幕末のころは「田中顕助」という名前でした。慎太郎も手紙の中で、たびたび彼を「顕助」と呼んでいます。

顕助はとても長生きで、昭和14年(1939)まで生きました。

後年の光顕は、維新のために亡くなった人々の遺墨を集め、命日には香を手向けています。

中岡慎太郎も、その一人でした。

光顕は、この日のことを後々まで覚えていたのでしょうか。
一緒に京都を歩いた慎太郎まで、その数か月後には亡くなることを、この時はまだ知りません。

けれど後年、長い人生を生きた光顕は、先に逝った仲間たちのことを忘れず、その死を悼み続けました。

慎太郎も、亡くなった人を訪ねていた

慎太郎自身も、亡くなった人のもとを訪ねています。日記には、こんな記録があります。

慶応元年四月七日
鴻城軍に行く。赤妻社参詣

(中岡慎太郎「海西雑記」より)

そして慶応3年の『行行筆記』にも、「霊山」を訪れた記録があります。

慶応三年七月十五日
晴。霊山参詣

(中岡慎太郎「行行筆記」より)

赤妻社は長州、現在の山口県にあります。

山口市にある七卿落ちの一人・錦小路頼徳の墓と案内板。中岡慎太郎が参詣した赤妻社ゆかりの史跡。

ここには、七卿落ちの一人・錦小路頼徳が眠っています。
文久3年(1863)の八月十八日の政変で長州へ下り、その翌年、元治元年に病で亡くなりました。

一方の霊山は、今では慎太郎自身も眠る志士たちの墓地です。
慎太郎が生きていたころにも、禁門の変などで亡くなった人々が葬られていました。

詩仙堂だけなら、たまたま立ち寄っただけかもしれません。
でも慎太郎の日記を追っていると、こうして亡くなった人の墓やゆかりの場所を訪ねる姿が出てきます。

令和に巡るならレンタサイクルが便利

法然院・銀閣寺・詩仙堂の3か所は、徒歩でも巡れます。
陸援隊屯所があった京都大学北部構内付近を出発し、3か所を巡って戻るコースは約6.4km。徒歩なら移動だけで約1時間30分です。

ただし、法然院と銀閣寺は近いものの、銀閣寺から詩仙堂までは約2.6km。3か所をまとめて回るなら、レンタサイクルが便利です。

陸援隊の足跡をできるだけたどるなら、現在の京都大学北部構内付近にあった陸援隊屯所からスタート。
観光を優先するなら、銀閣寺周辺でレンタサイクルを借りて、法然院→銀閣寺→詩仙堂と巡る方法もあります。

実際に走ってみたところ、この一帯は大きな坂道もほとんどなく、自転車で移動しやすいルートでした。

■法然院・銀閣寺・詩仙堂の拝観情報

スポット拝観時間拝観料自転車メモ
法然院6:00~16:00境内無料駐輪スペースあり本堂・方丈などは通常非公開。春・秋に伽藍内特別公開あり
銀閣寺3~11月 8:30~17:00/12~2月 9:00~16:30大人1,000円/小中学生500円周辺に駐輪場所あり拝観所要時間の目安は約30分
詩仙堂9:00~17:00(最終受付16:45)大人700円/高校生500円/小中学生300円駐輪スペースあり5月23日は丈山忌のため通常拝観と異なる場合あり

法然院は通常、境内を無料で拝観できます。伽藍内部は春と秋の特別公開時のみ公開され、2026年の秋季特別公開は11月18日~24日、一般800円です。

銀閣寺は2026年4月から参拝志納料が改定され、大人1,000円、小・中学生500円。公式では拝観所要時間の目安を約30分としています。

詩仙堂は9時から17時まで、最終受付は16時45分。通常は予約不要で、庭園や四季の景色も見どころの一つです。

■自転車なら移動はかなり楽

銀閣寺周辺と法然院の間は、自転車でおよそ3分。
銀閣寺から詩仙堂までは約2.6km。徒歩では40分弱かかりますが、自転車ならかなり移動しやすくなります。

大文字山にも寄る場合は、登山口付近で自転車を駐輪し、そこから徒歩で登ります。

今回のように大文字山まで登ると所要時間は大きく伸びますが、法然院・銀閣寺・詩仙堂だけなら、半日程度でも組みやすいコースです。

レンタサイクルは銀閣寺周辺にも複数あります。
料金体系や利用プランはサービスによって大きく異なるため、借りる前に時間料金・1日料金・プラン変更の方法まで確認しておくのがおすすめです。

なお、拝観時間や料金、駐輪場所などは変更される場合があります。訪問前には各寺院の公式サイトも確認してください🐭

最後は京都大学へ帰る

法然院、銀閣寺、詩仙堂。
慎太郎と光顕の日記を追って京都を巡りました。

最後は、分かっていますね?

京都大学北部構内の南門。陸援隊屯所跡を訪ねて構内へ入る地点

白川村の陸援隊屯所――現在の京都大学北部構内へ戻りましょう。

これであなたも陸援隊です。

※入隊には谷干城の審査が必要です。

陸援隊とは?中岡慎太郎が率いた討幕部隊をわかりやすく解説

海援隊の陸バージョン?だいたい合っている。でも、それだけじゃない。中岡慎太郎が率いた陸援隊の目的・隊士・海援隊との違い・京都の屯所をわかりやすく紹介します。

読了ありがとうございます

慎太郎ランドを追いかける 🐭

新しい史料、新しい史跡、そして新しい慎太郎を見逃さないために。

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