陸援隊屯所跡は京都大学!中岡慎太郎ゆかりの白川村を歩く

陸援隊屯所跡は京都大学と紹介する記事のアイキャッチ。中岡慎太郎の写真と京都大学北部構内を配置

中岡慎太郎が率いた陸援隊の屯所が置かれたのは、京都・白川村。
現在の京都大学北部構内付近です。農学部・理学部のあるエリアにあたります。

ただし、現地に「陸援隊屯所跡」と書かれた立派な石碑があるわけではありません。
では、実際どこなのか。

2026年の正月、隊長への新年のご挨拶も兼ねて探しに行ってきました。

30秒で分かる陸援隊屯所跡

項目内容
当時の地名京都・白川村
現在京都大学北部構内付近
隊長中岡慎太郎
活動開始慶応3年(1867)7月29日
目標討幕ぜよ
現地の石碑なし
見学可(入試実施時などを除く)

京都大学の農学部・理学部がある地域です。
目印は、ありません。
時代の壁が厚い。

なぜ白川村に陸援隊屯所が置かれた?

夜間に武装して集まる陸援隊士たちを表現したAIによるイメージ

慶応3年(1867)。
江戸時代の終わりが目前に迫り、幕府は京都をうろつく怪しい浪士たちへの取り締まりを厳しくしていました。
そんな浪士たちをまとめ、いざ討幕というときの兵力として集めた組織が、陸援隊です。

そのころ、白川村には使われていなかった土佐藩邸がありました。
京都の中心部からは少し離れていて、新撰組などの探索を避けやすい。しかも敷地は広く、大人数を収容できます。

うってつけすぎる物件です。
土佐不動産屋のイチオシ物件に、慎太郎も即決……したかは分かりませんが、土佐藩から使用許可を得ました。

そして7月29日、慎太郎は柳馬場の寓居から白川へ移転。
最初に集まったのは11人でした。そこから、少しずつ隊士が増えていきます。

陸援隊屯所跡を京都大学北部構内で探してみた

■古地図に載る陸援隊屯所跡

陸援隊屯所があったのは、現在の京都大学北部構内付近です。
私が場所を探すうえで参考にしたのが、『京都時代MAP~幕末・維新編~』。

幕末の古地図と現在の地図を重ねながら読める本なのですが、ページを開いて最初に出てきたのが――

陸援隊屯所。

感動……!
別に著者さんが「まずは陸援隊から!」と激推ししているわけではありません。
洛北から順番に紹介しているので、位置的に最初に出てきただけです。

分かっています。
分かっていますが、いの一番に陸援隊屯所が出てくるというだけで、小躍りしたくなります。

ちなみに、『中岡慎太郎全集』や伝記を見ても、陸援隊屯所が現在のどこにあたるのかまでは、意外と詳しく書かれていません。
出てくるのは「白川村」。では、現在の京都大学と「白川村」はどうつながるのでしょうか。

京都大学公式サイトを見ると、所在地には「京都市左京区吉田本町」とあります。
吉田。白川じゃない。

……と思いきや、北部構内にGoogleマップでピンを立てると、「北白川追分町」と表示されます。
しかも付近のバス停には、「北白川」の文字。

京都バス北白川バス停。銀閣寺道方面へ向かう北白川のバス停

ちゃんと残っていました。白川です。
幕末の白川村にあった陸援隊屯所は、現在の京都大学北部構内付近に重なっています。

■農学部?理学部?実際の場所を歩いてみる

古地図という強い味方を得た私は、2026年の正月、京都大学へ探索に参りました。
敬愛する陸援隊隊長へ、新年のご挨拶です。

京都大学北部構内の南門。陸援隊屯所跡を訪ねて構内へ入る地点

古地図を見るかぎり、土佐藩邸があった場所は、この門から理学部寄りのように見えます。
では、陸援隊士はいないでしょうか。辺りを見回してみます。

京都大学理学部付近の構内。木々に囲まれた建物と通路

…………。
正月なので、人の気配すらありません。

陸援隊には名簿上約50名の名前があり、洋式の銃隊訓練も行っています。
となれば、屯所にもそれなりの広さが必要だったはず。

理学部周辺だけ見て満足しては危険です。
いや、別に何も危なくはないのですが、油断はできません。

京都大学農学部総合館前。並木道と農学部総合館の建物

農学部方面にも進みます。

京都大学農学部総合館付近の構内。建物と庭園スペースの様子

インターネットで「陸援隊屯所跡」を調べると、農学部付近を屯所跡として紹介している記事も見つかります。
当初、私は「なぜ農学部なんだろう?」と思っていました。

ところが改めて資料を確認すると、宮地佐一郎『中岡慎太郎―維新の周旋家―』に、こんな一文がありました。

「洛東白川村にある土佐藩邸(現在京都大学農学部敷地)」

なんと、農学部と書いてあるじゃないですか。
ネットの記事がこの本を根拠にしているのかは、分かりません。
少なくとも「中岡慎太郎全集」の編者でもある宮地佐一郎さんは、陸援隊屯所を現在の京都大学農学部敷地にあたるとしています。

ただ、私が見ている『京都時代MAP~幕末・維新編~』の古地図では、現在の構内図と重ねると理学部寄りに見えます。

農学部なのか。
理学部なのか。

京都大学討幕部があれば聞けるのに。
残念ながら、そんな学部は見つかりません。

ここでは、現在の京都大学北部構内、農学部を中心とした農学部・理学部周辺としておきます。

■陸援隊屯所跡の石碑や案内板はある?

では、せめて石碑か案内板はないのでしょうか。

京都大学北部構内の案内図。農学部周辺と現在地を示すキャンパスマップをアップで撮影したもの

ありません。

陸援隊に関する石碑どころか、構内図を見ても陸援隊の名前が出てきません。
情報が足りてないのですが、記載漏れですかね!?

仕方がないので、ノーヒントで陸援隊の痕跡を探します。

京都大学北部構内の正門。陸援隊屯所が置かれた白川村周辺を歩く入口

銃弾の一つでも落ちていないのか、血眼です。
見つけられたら、普通に事件ですけど。

京都大学理学研究科付近の建物と温室。旧白川村にあたる北部構内の様子

ウロついているうちに、私は思いました。
「これじゃあ、私はどうやって入隊したらいいんですか!」

心の中で叫んでも、正月の京都大学には北風が吹くばかり。

ちなみに本当に陸援隊へ入隊する場合は、田中光顕ら幹部から上申してもらい、土佐藩小監察の谷干城が採否を決める仕組みだったようです。
意外とちゃんと選考がある陸援隊。

……それなのに新撰組の密偵は入り込んでいます。ちょっと待て。

▼そもそも陸援隊って何?中岡慎太郎が率いた討幕部隊を詳しく見る

陸援隊とは?中岡慎太郎が率いた討幕部隊をわかりやすく解説

海援隊の陸バージョン?だいたい合っている。でも、それだけじゃない。中岡慎太郎が率いた陸援隊の目的・隊士・海援隊との違い・京都の屯所をわかりやすく紹介します。

京都大学北部構内を見学するときの注意

京都大学吉田キャンパスは、個人であれば申請なしで自由に見学できます。
死ぬ気で勉強して受験しなくても大丈夫です。

ただし、入学試験などで入構できない場合があり、原則として建物内への立ち入りはできません。
また、ここは観光施設ではなく、学生や研究者が実際に学び、研究している場所です。
教育・研究の邪魔にならないよう、節度をもって見学しましょう。

陸援隊、そして中岡慎太郎の顔に泥を塗らないよう、マナーある歴史オタクでありたい。

私が訪れたのは、正月二日。
人が少なく、ゆっくり歩けたので、個人的にはかなり良かったです。

しかも新年早々、隊長にご挨拶できます。
慎太郎隊長、あけおめございます!

陸援隊屯所跡のアクセス情報

目指す場所は、京都大学北部構内です。農学部・理学部のあるエリアになります。
陸援隊屯所跡として石碑や案内板がないため、Googleマップでは「陸援隊屯所跡」ではなく、京都大学北部構内や京大農学部前を目的地にすると分かりやすいです。

出発地点行き方
京都駅市バス7系統で「京大農学部前」下車。
または206系統で「百万遍」下車後、東へ徒歩約10分です。
京阪・出町柳駅徒歩約20分。
市バス7系統を使えば「京大農学部前」まで約8分です。
そのほか京都河原町駅・烏丸今出川駅・東山駅からもバスでアクセスできます。

最新の交通情報や構内マップは、京都大学公式サイトをご確認ください。

陸援隊屯所跡から銀閣寺へ歩く

銀閣寺の庭園を背景にした中岡慎太郎の家紋入りバッグとお札

なお、私の来訪日は正月二日。
せっかくなので、すぐ近くの銀閣寺へ初詣に向かいました。
京都大学北部構内からは、徒歩15分ほど。

京都・白川疎水通の風景。銀閣寺方面に向かう白川疎水沿いの道

白川疏水通という、なかなか雰囲気のいい川沿いを歩けます。
ただし、この白川疏水が完成したのは明治23年。 幕末の慎太郎たちが見た景色とは、違うでしょう。

それでも、銀閣寺そのものには中岡慎太郎も訪れています。
慶応3年、慎太郎と陸援隊幹部たちが歩いた東山方面のコースは、別の記事でたっぷり追いかけています。

▼陸援隊の東山さんぽコース

中岡慎太郎と陸援隊の京都さんぽ|法然院・銀閣寺・詩仙堂を日記で巡る

中岡慎太郎と陸援隊幹部・田中光顕の日記をもとに、京都の法然院・銀閣寺・詩仙堂を巡ります。大文字山の絶景、久坂玄瑞・寺島忠三郎の位牌、陸援隊屯所跡の京都大学まで…

陸援隊屯所跡と一緒に巡りたい周辺の幕末史跡

陸援隊屯所跡があるのは、京都中心部から少し離れた左京区。
けれど、お隣の上京区にも中岡慎太郎ゆかりの地があります。

徒歩圏内とは言いにくい距離ですが、中岡慎太郎基準なら徒歩です。

■今出川の薩摩藩邸跡

慎太郎が足繁く通い、日記にも何度も登場する薩摩藩邸跡です。
陸援隊幹部の田中光顕らも、ここに潜伏していたと書き残しています。

所在地:京都市上京区岡松町
最寄り:今出川駅すぐ
屯所跡から:約2km・徒歩30分ほど

■小松帯刀寓居跡

薩長同盟が結ばれた場所ともいわれる、薩摩藩家老・小松帯刀の寓居跡です。
慎太郎と板垣退助が参加した「薩土密約」が結ばれた場所でもあり、『行行筆記』にも登場します。

所在地:京都市上京区森之木町
最寄り:鞍馬口駅すぐ
屯所跡から:約3km・徒歩40分ほど

■京都御所・蛤御門

幕末好きにはおなじみ、禁門の変(蛤御門の変)の舞台です。
中岡慎太郎もこの戦いに参加し、負傷しました。

所在地:京都市上京区烏丸通下長者町上ル元浄花院町 龍前町605
屯所跡から:約3km・徒歩40分ほど

▼禁門の変で負傷した慎太郎、まさかの避難場所とは!?

敵の家で留守番!?禁門の変で見えた中岡慎太郎の「ヤバすぎる胆力」

長州軍として禁門の変に参加し負傷した中岡慎太郎。彼が助けを求めて向かった先は、なんと敵方・薩摩藩士の旅寓だった!?『殉難録稿』を手がかりに、図々しいのに最高に…

動画で見る「陸援隊屯所跡は京都大学!?」

慎太郎&龍馬の歴史トーク『土佐ラジオ』でも陸援隊屯所跡について話しています。

討幕を夢見る若者たちが暮らした場所が、今では京都大学。
令和の学生とちょっと似ているようで、やっぱり全然違う。
銀閣寺へ散歩し、酒を飲み、犬まで……!

後半の田中光顕の犬エピソードは……だいぶ幕末です。

陸援隊屯所ではどんな暮らしをしていた?

討幕に息巻く陸援隊士は、白川村でひたすら調練の日々……でもなかったようです。

どんな部屋で暮らし、何を食べ、どんな毎日を送っていたのか。
隊士たちの暮らしは、別の記事で詳しくまとめています。

田中光顕の犬エピソードも、こちらでじっくりどうぞ。

ヤンチャすぎ!?陸援隊士の日常とは▼

陸援隊の暮らしは?部屋・食事・調練・給料事情を史料から見る

中岡慎太郎が率いた陸援隊。討幕部隊の若者たちは、白川村でどんな暮らしをしていたのか?部屋・食事・調練・お金事情を史料をもとに深掘りします。

まとめ|陸援隊屯所跡は京都大学北部構内付近

京都大学北部構内を歩く現代の学生と、その背後を歩く陸援隊士をイメージしたAI生成画像

幕末の白川村にあった陸援隊屯所は、現在の京都大学北部構内付近にあたります。

陸援隊は京都大学にいました。
……と書くと、めちゃくちゃ賢そうです。

ただし、現地に石碑はありません。
屯所の建物が具体的にどこにあり、どこで調練していたのかまでは分からず、真相は風の中です。

それでも、慎太郎や陸援隊士たちが暮らし、調練した場所を今も歩くことができる。
ありがとう、京都大学北部構内。 自由に見学できる敷地に感謝です。

次こそ陸援隊の入隊窓口を見つけたいので、京都大学にはぜひ「陸援隊屯所調査室」の開設をご検討いただきたい。

私は入隊希望者として伺います。

※この記事では一部、アフィリエイトリンクを使用しています。

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