なぜ高知はゆず名産地?幕末の志士・中岡慎太郎が仕掛けた「調味料補完計画」の真相

高知県の名産品として真っ先に思い浮かぶ、爽やかな「ゆず」。
実は、このゆず栽培を地域に根付かせ、一大産業へと導くキッカケを作ったのが、
幕末の志士・中岡慎太郎だということをご存じでしょうか。
「土佐のいごっそう(頑固者)」として知られる骨太な慎太郎と、可憐なゆずの組み合わせ。
その意外すぎるギャップに、思わず心が惹かれてしまいますよね🐭💖
しかし、慎太郎がゆずを選んだ背景には、単なる思いつきではない、
幕末の北川郷が直面していた過酷な現実と、彼ならではの鋭い「経済の目」がありました。
何故、ゆずだったのか?
調べていくうちに、慎太郎が未来の故郷に残した、あたたかい知略が見えてきました。
まずは、その全貌をサクッと解説した、
土佐ラジオのShort動画からチェックしてみてください!
100年以上の時を超えて、現代の北川村にも息づく「慎太郎のゆず」。
彼が現代に繋いだ未来の景色を、一緒に紐解いていきましょう!
なぜゆずだったのか?中岡慎太郎が北川郷で栽培を奨励した「現実的な理由」
■天保の大飢饉に安政南海地震……若き慎太郎を動かした故郷の危機

慎太郎が生まれた天保9年(1838年)は、
まさに歴史の教科書にも載っている「天保の大飢饉」の真っ只中でした。
その後も飢饉は度々村を襲い、
慎太郎が村人のためにサツマイモ五百貫(約1.8トン!)をかき集めて用意した、という記録も残されているほどです。
さらに、彼が田野学館(たのがっかん)で熱心に勉学に励んでいた安政元年(1854年)の暮れには、
土佐全域に甚大な被害をもたらした「安政南海地震」が発生。
数年規模で度重なる余震が続くという不安な状況の中で、
慎太郎は北川郷の復興のために土佐藩へ直接掛け合い、
なんと「八百両」という大金を借りてくるという大仕事を成し遂げています。
北川村の公式サイトでは安政5年(20歳)、
北川村が発行している『ゆずいっぱい手帖』では安政元年(17歳!)と、
ゆず栽培を奨励した時期には諸説ありますが、
いずれにせよ、まだ10代後半から20歳そこそこの若さです。
「中岡慎太郎全集」の編者でもある宮地佐一郎氏の著作によると、
慎太郎がこの時期に郷のために行った政策は、ゆず栽培の推奨だけではありませんでした。

・山林の整地と、伐木後の「植林」の義務化(未来を見据えた環境保全)
・効率的な田畑の開墾の奨励(食料自給率の向上)
・共同倉庫(郷倉)への食物貯蔵(次の飢饉への備え)
・樟脳(しょうのう)やハゼノキ(木蝋の原料)の栽培推奨(特産品開発)
10代~20代前半の若さで、ここまで総合的な「郷の地域復興計画」を描き、実行していたのかと思うと、
彼の郷土愛の深さと、積み重ねてきた学びを現実の政策へ落とし込む力に、思わず胸が震えます。
自分が生まれた時から続く飢饉の爪痕、
そして目の前で起きた大地震というダブルパンチの中で、
「北川郷のために、大庄屋見習いとして今何ができるか?」と、
若き慎太郎が必死に郷の救済を考えていたリアルな熱量が、これらの事績から痛いほど伝わってきますよね。
■山の中で「塩」すら買えない過酷な現実を救う「最強の代用品」

当時の北川郷が置かれた環境を紐解くと、
なぜ慎太郎が「お腹が膨らまないゆず」を選んだのか、
その現実的な理由が見えてきます。
飢饉のとき、深い山に囲まれた北川郷の農民たちは、
生きるために近くの奈半利川で魚を獲ることはできても、
それを味付けし、保存するための「塩」を買うお金すらありませんでした。
塩がないため、味噌や醤油を作ることもおぼつかない状態です。
ただ焼いただけの生臭い魚を食べ続けるか、あるいは保存できずに腐らせてしまう……。
そんな食糧難を救うために慎太郎が着目したのが、
当時から北川に自生していた「ゆず」でした。
ゆずの強い酸味は、塩の代わりとして防腐や調味料に使えます。
しかも、ゆずは日陰でもよく育つタフな植物です。
だからこそ慎太郎は、貴重な米や野菜の農地を潰さないよう、
作物が育ちにくい「家の裏」や「山すそ」のデッドスペースを有効活用してゆずを植えることを、村人に勧めました。
まさに、限られた環境の中で生存率を上げるための、若き慎太郎の切実な知略だったのですね。
■今も山すそに残る「慎太郎のゆず」と、歴史の解像度が上がる一冊

実際に今でも北川村の現地を歩くと、
山すそにたくさんの古いゆずの木を見かけることができるそうです。
これらはすべて、種からじっくり育った「実生(みしょう)のゆず」。
特に古い古木は、なんと慎太郎の時代に植えられたそのものだと言われているのです。
目の前にある木が、170年近く前に慎太郎が村人に「ここに植えよう」と声を掛けた張本人(張本木?)だなんて、
一気に歴史の解像度が上がりますよね……!

中岡慎太郎生家と中岡慎太郎館の間にあるゆずも、そんな実生ゆずのひとつ。
私はこの写真を撮影した時にはそれを知りませんでした。
抱きしめておけば良かったです……愛と敬意を込めて……。
ちなみに、先ほどご紹介した
「塩の代わりとしてのゆず」のエピソードや、日陰の山すそに植えたお話は、
高知県の電子書籍サイト「高知e-books」で
無料公開されている『ゆずいっぱい手帖』に、とても詳しく、そして分かりやすく載っています。
北川村とゆずの歴史や魅力がダイレクトに伝わってくるのはもちろん、
現代の美味しそうなゆずレシピもたくさん掲載されています。
「こんなに便利なご当地電子書籍サイトがあるなんて、高知はすごい!」と感動していたのですが、
調べてみると、実は日本各地の様々な自治体にも同じような「地域限定のe-booksサイト」が存在することを知りました。
もしかしたら、あなたの住む地域のe-booksもあるかもしれません。
地元の面白い歴史や魅力を再発見できるチャンスですので、
ぜひチェックしてみてくださいね!
「柚子の大馬鹿十八年」を越えて――志士が夢見た未来の景色
■畑の完成を見ずして散った慎太郎の無念

「桃栗三年、柿八年、柚子の大馬鹿十八年」という有名なことわざがありますよね。
果実が実るまでの期間を伝えたものですが、ゆずは種(実生)から育てると、
収穫できるまでに非常に長い歳月がかかります。
現代の栽培技術をもってしても相応の時間がかかりますが、
幕末の当時はまさに言葉通り、一人前の畑になるまで途方もない辛抱が必要でした。
慎太郎が北川郷の未来を思い、たゆまぬ努力で学びを積み重ね、村人たちにゆずの種を植えさせたとき、
彼は知っていたはずです。
この木が黄金色の実をつけ、村を豊かに潤すのは、ずっとずっと先の未来なのだと。
そして歴史のタイムラインは、
慎太郎にその未来を待つ時間を与えてくれませんでした。
安政年間に故郷の危機を救ったのち、慎太郎は日本の大転換期に向けて、
文字通り命を削って全国を奔走することになります。
薩長同盟の仲介、陸援隊の結成……
激動の幕末を駆け抜けた彼は、
慶応三年(1867年)、京都の近江屋にて29歳の若さで倒れてしまいました。
文久三年(1863年)、土佐を脱藩してから一度も故郷へ帰ることのなかった中岡慎太郎。
自分が故郷の山すそに蒔いた種が、見事な果実となって村を包み込む景色を、
彼はついに一度も見ることができなかったのです。
■今も北川村に残る「慎太郎のゆず」の原木

国事に命を捧げ、志半ばで散っていった慎太郎。
しかし、彼が故郷に遺した「祈り」のような種は、しっかりと土の中で命を繋いでいました。
そして慎太郎が去ったあとも、
ゆずの木は時代を超えて北川の地で根を張り、静かに育っていきます。
実は、長い歴史の中で、ゆず栽培がずっと順風満帆だったわけではありません。
一度は時代の波に埋もれかけそうになりながらも、
昭和40年(1965年)頃に改めて注目を集めることになります。
こうして村の人々の情熱によって再び火がついたゆずは、
現代では高知を代表する一大名産品へと、見事な大復活を遂げたのです。
驚くべきことに、現在の北川村には、
今でも慎太郎たちの時代に植えられた種から育った「実生ゆずの原木」が残されているそうです。
慎太郎自身は見ることができなかった黄金色の実を、
100年以上経った現代の私たちは見ることができ、
そのみずみずしい香りを味わうことができる――。
これって、歴史のロマンという言葉だけでは片付けられない、
故郷と慎太郎の強い絆の奇跡だと思いませんか?
彼が命がけで夢見た未来の景色が、いま、私たちの目の前に広がっているのですね。
現代の北川村を歩く!慎太郎の遺伝子を体感する「ゆずの宿」と「ゆず新聞」

■村の熱量が凝縮された「ゆず新聞」が伝えるもの
高知から遠く離れた場所にいても、
北川村のゆずへの熱量をダイレクトに感じられる素敵な媒体があります。
それが、年に2回発行されている『北川村ゆず新聞』です。

私は大阪にある「高知県大阪事務所」でこの新聞をいただいたのですが、
紙面だけでなく公式Instagramでも情報が発信されており、
なんと希望者には定期便での送付も行っているそうです。
新聞もSNSも、とにかくデザインがオシャレで洗練していて、一目でファンになってしまいました。
現代の北川村の方々が、慎太郎の遺したゆずをいかに誇りに思い、
大切に発信しているかが伝わってきて、
ページをめくるたびに心が温まります。
■歴史ファンの聖地「北川村温泉 ゆずの宿」の魅力
そして、北川村を訪れたならいつか絶対に泊まってみたい、
慎太郎ファン🐭憧れの宿が「北川村温泉 ゆずの宿」です。
冬になると、豊かな自然に囲まれた温泉で贅沢な「ゆず風呂」が楽しめることを公式サイトで知り、
「行くなら絶対に冬!」と心に決めています。
さらに、客室のアメニティでもゆずのみずみずしい香りが楽しめるとのこと。
一歩足を踏み入れれば、まるで慎太郎が愛した故郷の香りに全身が包まれるかのような、
贅沢で至福のひとときを過ごせそうですよね。
いつか必ず訪れて、その現地の空気感を皆さんにもレポートしたいと思います。
【プチ考察】馬路村と何が違う?高知ゆずブランドを支える「中芸地域」のストーリー

■幕末の「北川郷」の広大さと馬路村の位置関係
ここで、少し地理的な歴史トークを。
慎太郎が大庄屋見習いを務めていた幕末の「北川郷」は、
現在の北川村の集落(長山、西谷、和田、小島、平鍋、二又、成願寺、久江ノ上、久木、弘瀬、安倉、菅ノ上、竹屋敷)を含む、
南北45km、東西12kmにも及ぶ非常に広大な土地でした。
高知のゆずと言えば、
全国的にはお隣の「馬路村(うまじむら)」を思い浮かべる方も多いかもしれません。
馬路村は北川村から北へ約25kmほど離れた場所に位置しており、
地理的にも非常に近い距離にあります。
「もしかして馬路村も、当時は北川郷に含まれていたのかな?」と思いを馳せてしまいますが、
どうやら別の管轄のようです。
しかし、この山深い地域一帯は、
古くから切っても切れない強い繋がりを持っていたのです。
■昭和40年、ともに立ち上がった「中芸地域」のゆず物語
現在では、北川村や馬路村、そして近隣の安田町、田野町、奈半利町の5町村を合わせて
「中芸(ちゅうげい)地域」と呼んでいます。
実は、北川村で慎太郎のゆずが再注目されたのと同じ昭和40年(1965年)頃、
この中芸地域全体でゆずの本格的な栽培が一斉にスタートしたといわれています。
この地域には、かつて木材を運んでいた「魚梁瀬(やなせ)森林鉄道」の跡地があるのですが、
現在はその走っていた道が「ゆずロード」と呼ばれています。
ただ美しい景観を楽しめるだけでなく、たくさんのゆず料理が味わえるなど、
まさに五感でゆずの魅力を満喫できる観光名所となっているのをご存じでしょうか。
そんな中芸地域を代表する二大巨頭が、馬路村と北川村です。
馬路村が『ごっくん馬路村』などの大ヒット商品で知られる、
独自のユニークなブランド化で全国にその名をとどろかせる一方で、
実は北川村は高知県内第2位の生産地(※2021年高知県農業振興部調べ)。
その高い品質を武器に、近年ではフランスをはじめとするヨーロッパへの輸出を果たすなど、
世界からも愛されるゆず作りを行っています。
独自のブランド力で魅せる馬路村と、圧倒的な生産量と品質で世界へ羽ばたく北川村。
それぞれ異なるアプローチで、高知のゆずブランドを力強く牽引してきたのですね。
お互いに切磋琢磨しながら、
過酷な山あいの土地を「日本一のゆず王国」へと変えていった中芸地域の人々。
その素晴らしい発展の原点をたどると、
やはり若き日の慎太郎が故郷のために蒔いた一粒の種へと行き着きます。
そう考えると、改めて彼の先見の明と、
現代に繋がる地域の絆の強さに、圧倒されてしまいます。
まとめ:100年の時を超えて、腹も心も温める「慎太郎のゆず」

なぜ高知県の名産品は「ゆず」なのか。
その謎を紐解いていくと、幕末の飢饉や大地震という過酷な現実の中で、
大庄屋を継ぐ長男としてたゆまぬ努力と学びを積み重ね、
知恵を絞り続けた若き中岡慎太郎の姿がありました。
文久3年に脱藩して以来、二度と故郷の土を踏むことなく29歳で駆け抜けた慎太郎は、
自分が推奨したゆず畑が黄金色に染まる景色を見ることは叶いませんでした。
しかし、彼が遺した種と志は、昭和の復活劇を経て、
現代の「ゆずの宿」やオシャレな「ゆず新聞」、
そして世界へ羽ばたく一大ブランドへと見事に実を結んでいます。
川魚の生臭さを消し、塩の代わりとして命を繋いだ
「調味料補完計画」から始まった、土佐のゆず物語。
今度高知のゆずを味わうときは、ぜひ170年前にその未来を夢見た、
優しくも実直な志士の横顔に思いを馳せてみてください。
きっと、お腹だけでなく、心までじんわりと温まるはずです。
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