中岡慎太郎の脱藩を徹底解説|動機・背景・長州を目指した理由と推定ルート

幕末の志士・中岡慎太郎は、なぜ土佐を脱藩したのか。その背景と経緯を、史料をもとに整理していきます。
みなさん、ごきげんよう!脱藩してますか?
筑前の脱藩者🐭ちゅう乃です(ただの引っ越し)
幕末といえば、脱藩浪士!
え?違う?いや私はそうだと思う(断固)
なんて言ったって、中岡慎太郎は土佐から脱藩した志士。
だいすきなので、慎太郎の脱藩に関する逸話をもとに、動画も制作しました。
そして今回の記事では──動画ではほとんど触れなかった「脱藩そのもの」をじっくり掘り下げます。
💡この記事でわかること
・中岡慎太郎が脱藩する背景と理由
・八月十八日の政変前後の動き
・推定される脱藩ルートと目的地
・その脱藩が持つ歴史的意味
愛と心をこめて!今回も元気に一筆啓上🔥仕ります🐭
脱藩前夜──追い詰められていた中岡慎太郎
ではまず、脱藩直前の中岡慎太郎の姿を見ていきましょう。
文久三年(1863年)夏ごろ。
慎太郎は高齢の父の看病のため、郷里・北川郷に帰省していました。
この時期の彼は、土佐勤王党の前線で動いていたというよりも、大庄屋として家業に携わる日々を送っています。
けれど──その胸の内は、決して穏やかではありませんでした。
北川郷での焦燥と、檄を飛ばす手紙

北川郷は、高知城下から50km以上離れた山深い土地。のどかで、美しい自然に囲まれた場所です。
でもその静けさは、慎太郎にとって「安らぎ」ではなく、「焦り」を増幅させる時間だったのかもしれません。
文久三年六月二十七日。
彼は、イライラ全開……胸の鬱屈を吐き出すような手紙を書いています。
「一翰呈上仕り候。
然れば先書にも申上候通り、何分今日に至り黙々致しては実に相済まず、他より相見候ても弥虚喝に相成り、国家の為死を以て尽力する実意も相立つまじく、田所君も着され候へば、又々上国の模様も委細に相分り申すべく、尚更止むを得ざる訳に至り申儀と存ぜられ候。何分にも君等自称して縛に就き候へ。
左候得ば僕なども追々駈つけ、身柄相応の処覚悟仕るべき心得に御座候。(略)実に神州存亡、恐れながら天朝の衰隆此時に在りと、天下の士皆死を以て尽力する時なるに、黙々の事は実に相成らざるに付、何分にも一策は施して然りと存じ奉り候。」
この手紙の要点は3つです。
🔥黙っていたら、口先だけの人間になってしまう
🔥君たちも覚悟しろ。自分も駆けつける覚悟はできている
🔥天下の士は皆、死をもって尽くす時だ
うーん、血気盛ん!ほとばしる熱い想い…。
この時の慎太郎さん、25歳です。若々しさが眩しい。
生きるのに真剣で、すきです!!
宮地佐一郎氏の慎太郎評伝によると、この手紙は京都から戻った清岡道之助から尊攘派公家・姉小路公知暗殺事件の報を聞いた慎太郎が、高知城下の同志に向けて檄を飛ばしたものとされています。
そしてこの手紙では、土佐勤王党のリーダー・武市半平太にも触れています。
「瑞山君は如何の訳を以て唯今のやうに くさらし置き候事にや。
上京も候へば屹度天朝の御為にも相成る人に候を止め候は如何。
実に慨くべき至に候事。」
半平太を「瑞山君」と呼ぶのが、私としては興味深いですね。
『師』として仰ぐように見ていたのかと思いましたが、対等な同志のように呼んでいます。ふむふむ。
これは半平太本人に直接送った手紙ではありません。
この頃、朝廷に親兵設置する話が上がり、半平太が指名されたのを土佐藩が無視しました。
(平尾道雄『坂本龍馬・中岡慎太郎』より)
慎太郎はそれを嘆き、「なぜあれほどの人物を、土佐の中に留めておくのか」という苛立ちをあらわにしています。
『くさらし置き候』って口語的な書き方に、抑えられない感情があって……眉間にすっごい皺を寄せて書いてそうなところがたまらないです。私は🐭
そして締めくくりが、これ。
「右彼是山中間鬱に堪へず、
思ひ出候まま相認め候間、
宜しく御取捨仰付けらるべく候。」
──山中にあって、鬱憤に堪えかね、思うままに書いた。
(つまり、怒りの徒然草…ってコト!?)
この結びの文にある、慎太郎の本音は見逃せません。
山の中で、動けずにいる。それなのに時代は激しく動いている。
まるで自分だけが取り残されているような──。
この焦りは、相当なものだったでしょう。
もしかすると同志に向けた檄は、本当は自分自身への叱咤でもあったのかもしれません。
たった一通の書簡からも、慎太郎の焦燥と、抑えきれない熱がはっきりと伝わってきます。
八月十八日の政変を知った衝撃

悶々と北川郷にいながらも、慎太郎は同志との連絡を絶やしていませんでした。
そして京都では、尊攘派の立場が一夜で崩れ落ちる出来事が起きます。「八月十八日の政変」です。
長州は都から締め出され、尊攘派の公家は追われる。尊皇攘夷の炎が、京都の中心から“消えていく”。
その報せは、同志経由で早々に北川郷にも届きました。そしてそれは、慎太郎の心を大きく揺さぶります──。
先述の六月の手紙には、こんな一節がありました。
「僕儀拠なく病人これあり、
急に出府と相調はず残念の至に存じ奉り候」
ここでいう「病人」は、父のことです。慎太郎は父が五十代になって授かった待望の長男。
真面目で責任感の強い慎太郎が、家を継ぐこと、父の期待に応えることを大事にしていた──そう考えると、北川に留まっていた時間の重みが見えてきます。
同志に火を吹くような檄を飛ばしながらも、郷里を離れられなかった。
そんな慎太郎を動かしたのが、八月十八日の政変でした。
尊皇攘夷の急先鋒だった長州。帝と直接つながる尊攘派の公家。
──その両方が都から追われた。
このまま、尊皇攘夷は終わるのか?
「こうして北川郷にいる間に、国の火が消えるかもしれない」という危機感。
慎太郎にはもう、座して待つという選択肢は残されていませんでした。
そしてここから、彼の足取りは決定的に変わります。
慎太郎、動き出す──長州潜行と高知帰還
ここから先の慎太郎は、もう「北川郷の大庄屋」ではありません。
国の炎が消えるかどうか、その境目に自分の身体を投げ込んでいく──“実務家の志士”になっていきます。
9月5日。慎太郎は高知城下へ発ちました。
それから彼は、二度と北川郷の家に帰ることはありませんでした。
慎太郎が密かに長州へ現れたのは9月19日。
そこでは、同じように土佐から出奔していた同志と会い、尊攘派の公家・三条実美にも謁見しています。
長州の情勢を聞き、公家から和歌を賜り──そのうえで長州を出ました。
この時点では、慎太郎はまだ「脱藩」という最終決断を下してはいません。
なぜなら彼は、得た情報を携えていちど土佐へ戻っているからです。
同志たちと次の一手を打つために、いったん帰る。
そして──慎太郎が土佐へ戻ったその時、土佐藩はさらに深い闇へ転じていきます。
逮捕命令と間一髪の帰郷
八月十八日の政変は、尊皇攘夷派にとって大きな転換点でした。
それは慎太郎個人にとっても、そして土佐勤王党にとっても同じです。
文久三年(1863年)の初夏ごろから、土佐ではすでに不穏な空気が流れていました。
そして政変をきっかけに、土佐藩の実権を握る山内容堂は、土佐勤王党への弾圧を本格化させていきます。
九月二十一日、武市半平太への逮捕命令
政変の翌月。土佐勤王党のリーダー・武市半平太をはじめ、中心人物たちが投獄されていきます。
このあとに起きる「勤王党の粛清と壊滅」については、以下の記事で詳しくまとめています⬇
──土佐勤王党、窮地!
けれどこの日、慎太郎はまだ長州にいました。
土佐で何が起きているのかを知らないまま、京都と長州の情報を手に入れ、同志たちの待つ土佐へ戻ろうとしていたのです。
なぜ慎太郎は捕まらなかったのか
土佐では、同志たちがすでに危険を察知していました。
藩庁側の日記にも食い違いがあり、慎太郎について「投獄された(召し捕り)」と書く人もいれば、「出奔した」と書く人もいました。(佐々木高行、寺田志斎の日記)
同志たちの間でも情報は錯綜していたようです。
──そんな噂が混じり合う中でも、ひとつだけ確かなことがありました。
慎太郎が土佐にいれば、捕まる。
それは、ほぼ間違いない状況だったのです。
慎太郎が戻ってくると聞いた同志の一人が、彼を迎えに行きます。
そして──長州から戻った慎太郎は、高知城下から約5km手前にある朝倉の木丸神社の近くを歩いていたところで、その同志と無事に合流できました。
このくだりは、松岡司『中岡慎太郎』でも触れられていますが……正直ちょっと出来すぎな話でもあります。
いつ帰ってくるのか。どの道を通るのか。密かに長州へ行っていた慎太郎が、そこまで事前に伝えていたとは考えにくくないですか?
もし本当に“道端でばったり”だったとしたら、なんという奇跡!
この僥倖があったからこそ、中岡慎太郎は「粛清された土佐勤王党の一人」で終わらなかった。
慎太郎さんがここで終わらないでくれて、本当に本当に良かった…………神と仏と土佐勤王党に、感謝します🐭🙏
同志の忠告と路銀──慎太郎を救った「逃げろ」の一言

評伝によると、慎太郎は合流した同志から、真っ先にこう忠告されます。
「危険だ、捕まるぞ!」──と。
説得というより問答無用。
「今すぐ逃げろ。まだ路銀はあるか?」と続けて問われています。
このやり取りからは、立ち止まって悩む余裕などなかったことがうかがえます。
状況は、切迫していました。
慎太郎が「もう金が尽きた」と答えると、その同志はありったけの金を差し出し、逃げるよう促します。
土佐勤王党に関わった者の多くは下士で、決して裕福ではありません。
それでも仲間のために、手持ちの金をすべて渡す。
そこにあったのは、単なる同情ではありません。志を同じくする者同士の、強い結びつきでした。
――ここで、名前も記しておきます。
この同志は『足達幸蔵』さん。
歴史の表舞台に立つのは、ほんのひと握り。
でも、こういう「名が大きく刻まれない一人の行動」が、誰かの命をつなぎ、結果として時代を動かしていく。
私はそこに胸を打たれました。
そして――、土佐勤王党の弾圧を知った慎太郎は、戻ったばかりの土佐から改めて長州を目指すことになります。
長州への道、おかわり!(しんどい🤣)
ただ慎太郎さん、命が危ないのに「即・とんぼ返り」ではありません。
このあと彼は、しばらく土佐に留まっています。
慎太郎が時折見せる豪胆なところ”には、私、毎回びっくりなんですよね……!
出奔前夜の中岡慎太郎|高知城下潜入と脱藩の誘い
同志の足達さんが、ありったけのお金を渡してまで「早く逃げろ」と言っているのに──慎太郎さん、まさかの高知城下へ潜入します。
嘘でしょ慎太郎!!!
……いや、嘘じゃないです。笑
慎太郎が向かったのは
🏠投獄された武市半平太の妻・富子の弟 島村寿太郎 宅
🏠そして、武市半平太の道場(塾)で 三宅謙四郎 と会う
これらは足達さんと会った朝倉から考えると、どうしても城下方面を通らざるを得ない場所です。
つまり慎太郎は、危険を承知で会いに行ったことになります。
そして慎太郎は、謙四郎に「一緒に脱藩しないか」と誘いました。
しかし謙四郎はこれを断り、代わりに送別の漢詩を唱和したものが残っています。
男児成志果何辺
今日馬関起砲烟
捧得錦旗東向処
与君再会帝都天中岡光次脱国前、一夕会瑞山先生之塾
賦聯旬 三宅謙四郎 拝
(松岡司『中岡慎太郎』/『坂本中岡両氏遺墨紀念帖』)
──ここに、「脱藩前に瑞山先生(武市半平太)の塾で会った」と明記されています。
松岡司氏の評伝によると、慎太郎はさらにこの後、安芸浦西浜に住む同志も脱藩を誘いましたが、断られています。
同じように、投獄される前の武市半平太も、身を案じて脱藩を勧めらながら、それを拒みました。
──お殿様に忠義を尽くすこと。
それは現代に生きる私たちの想像以上に、簡単には手放せない価値だったのです。
家族を置いていくという決断

慎太郎が仲間を誘っても、断られてばかりだった脱藩。
命が危ないなら土佐を出ればいい──現代の感覚だと、そう思ってしまいます。
でも幕末の「脱藩」は、ただの引っ越しではありません。
・藩の許可なく領地を離れる=重い罪
・本人だけでなく、残された家族まで咎められることがある
つまり「出る」という選択は、生活も立場も人間関係も、ぜんぶ捨てる決断です。
しかも自分だけでは済まず、家族を巻き込む。
……危険とデメリットが大きすぎて、おいそれと選べないのも当然ですよね🤔
父の看病のため、どれだけ鬱々とした日々でも北川郷に留まっていた慎太郎。
彼だって「家族を置いていくこと」を、とても気にかけていました。
それが伝わってくるのが、脱藩後に同志から届いたこの手紙です。
扨御国許御懸念の御旧里尊父君方の御事何も官より御譴責御座なく、
依然たる御模様に御座候に付、
御安心なさるべきやう存じ奉り候。(元治元年二月二十八日『伊藤善平→中岡慎太郎宛』)
「あなたが心配していたお父上は、藩から咎めもなく、変わりなく過ごしている。安心してほしい」──という内容です。
慎太郎は何もかも捨てて土佐を出ました。でもそれは、自己保身だけの冷たい選択ではありません。
ここから先が、彼の脱藩の“核心”です。
脱藩は“逃げ”だったのか

土佐にいれば、命の危険があったのは確かです。
でも中岡慎太郎は、それを知る前の9月5日に、すでに土佐を発って長州へ奔っています。彼を動かしたのは、「危険」から逃げる気持ちだったのでしょうか。
六月の手紙には、こうあります。
『実に神州存亡、恐れながら天朝の衰隆此時に在りと、天下の士皆死を以て尽力する時』
「今こそ、日本のために命を懸ける時だ」と。
あの鬱屈した六月の手紙を読んでも、慎太郎を突き動かしていたのは“恐れ”ではなく、“使命感”です。
彼は、口先だけの机上論を嫌いました。
言葉にするなら、行動する。
壁が立ちはだかれば、ただぶつかるのでも、諦めるのでもない。
道を探して、前へ進む。──有言実行の人。
私は、中岡慎太郎の人生を追いながら、彼をそういう人だと信じています。
だからこの脱藩は、「逃げ」ではなく、選んだ道だったのだと結論づけます。
……とぉってもカッコイイ🐭✨
中岡慎太郎の脱藩ルートと目的地

見つかれば捕縛。
さあ、中岡慎太郎――、二度目の脱藩です。
ただし、慎太郎の脱藩ルートは明確に判明しているわけではありません。ここでは、宮地佐一郎氏および松岡司氏の評伝をもとに、推定される足取りを整理します。
✅まず確認できる動きこれまでの流れをまとめると、慎太郎は次の地点を移動しています。
・朝倉で足達と会う
・高知城下で三宅謙四郎らと会う
・安芸浦西浜で同志と会う
🚢御畳瀬からの船出
宮地佐一郎氏は、この間に慎太郎が母の実家のある御畳瀬(みませ)から乗船したと記しています。
御畳瀬は高知城下の南、桂浜方面の港町。
ここから船に乗ったとすれば、慎太郎は陸路ではなく海路を選んだことになります。
さらに安芸郡方面への立ち寄りも確認されており、時系列は
朝倉
→ 高知城下
→ 御畳瀬
→ 安芸浦西浜
と整理できます。
🐯阿波経由で長州へ
その後、慎太郎は阿波(現在の徳島県)を経由し、関西方面へ抜けて長州へ向かいました。
これは複数の研究者が支持している経路です。
なお多くの土佐志士は、西部の半山・檮原(ゆすはら)ルートから脱藩しました。
実際、長州から戻った際の慎太郎が朝倉(城下西方)を歩いていたことから、長州からの復路では檮原方面を通った可能性が考えられます。
しかし、二度目の脱藩では阿波経由が有力です。
なぜ西ではなく東を選んだのか。明示した一次史料は残っていません。
ただ、武市半平太の道場は高知城下の東に位置します。
城下周辺は警戒が強まっていたはずで、同じ経路を繰り返すことを避けた──そんな判断があったのかもしれません。
多くの同志が選んだ西の山越えではなく、あえて東へ抜け、阿波を経る道。
この選択は、結果としてより過酷な行路となりました。
脱藩の艱難
のちに山本左右吉の回顧として、こんな趣旨の話が伝わっています。
「中岡慎太郎が脱走した時は、
阿波の同志の家を訪ねても
奸吏のせいで一夜の安眠も出来ず、昼は山に隠れて夜ばかり走った。辛うじて中国路に渡れたというじゃないか」
(松岡司『中岡慎太郎』より、要約して引用)
同書では、二度目の脱藩は二週間〜二十日近くを要した可能性がある、とも述べられています。
時期は(新暦換算で)およそ11月ごろ。夜は長く、寒さも厳しい季節です。
寒さ、空腹、疲労、睡眠不足――それらが積み重なる中で、昼は潜み、夜に移動する。
この行程がどれほど過酷だったかは、想像に難くありません。
それでも戻るわけにはいかない。
脱藩の道は、前へ進むしかありませんでした。
余談・阿波まわりで関西へ行った話(車だけど)
余談ですが、私が土佐を旅した時は車でした。
西の愛媛県から高知城下へ入り、そこから北川郷へ行き、室戸岬を回って徳島へ抜け、淡路島を渡って関西へ──というルートです。
ある意味、慎太郎と同じく「阿波まわり」で関西方面へ向かったことになります。
私は北川→室戸岬→阿波→淡路島→関西を一日で走りましたが、これが……車でも果てしなく感じる距離感でした。
途中で渋滞もありましたが、車で8時間でしたよ。
徒歩で行けと言われたら、私は最初の室戸岬のあたりで力尽きます。ふふ。
闇夜の70km──異常な健脚伝説
この脱藩の行程を象徴するのが、山本左右吉の妻の証言に基づく「闇夜の70km」の逸話です。
一夜にして約70km歩き抜いた、という慎太郎。
その距離は東京ドーム何周分?普通の人と比べて、どれだけ“異常”なのか?
この話は別記事で、距離感とペースを楽しく検証しています🐭
“異常”と言いたくなるほど過酷な一夜。
それでも慎太郎が向かった先は──志士の集う場所、長州でした。
北川郷の目前──「帰らない」と決めた慎太郎

実は、山本さんの奥さんの証言には「闇夜の70km」だけでなく、続きがあります。
『田野まで来て、一里余りの柏木の奥さんたちにも会わないから、一度お父さんでも訪ねて来てはと申しましても、如何しても聞き入れないで(以下略)』
──「せっかくだから家に寄っていきませんか」と言っても、慎太郎は寄らなかった、という話です。
ここで出てくる田野や柏木は、安芸郡の地名。
つまりこの証言の舞台は、慎太郎の故郷・北川郷にかなり近い場所なんですよね。
さらにこの証言は、三条実美の名前も挙げているため、時期としては二度目の脱藩のエピソードではないか──と私は見ています。
脱藩を決めたあとに、家族の顔を見たら揺らぐ。
あるいは、家に寄ったことが藩の目に触れる危険もある。
そう考えると、慎太郎が“故郷に寄らなかった”理由は……なんとなく分かる気がします。
なぜ長州を目指したのか

八月十八日の政変で、京都から尊攘派が追われました。
尊攘派に「都の居場所がない」なら、次の場所へ行くしかない。その“場所”として現実的だったのが、長州です。
💡理由は、主にこの3つ
・尊皇攘夷の急先鋒と言えば長州
・都を追われた尊攘派公家も、長州へ落ちのびている
・脱藩浪士たちが長州に集まり、情報と人脈が集積している
動画でも名前を出した久坂玄瑞・高杉晋作は、現代の私たちでも耳にする有名な志士ですよね。
久坂とは脱藩の前年に佐久間象山を訪ねる旅を共にしており、晋作とも京都では島津久光の襲撃計画を立てるなど、慎太郎にとって2人は「実際に語り合った相手」でした。
さらに後年の『時勢論』でも、慎太郎はこの2人の名を繰り返し挙げています。
──「同じ時代を動かす先駆者」として尊敬していたのではないかと感じます。
尊皇攘夷を掲げる慎太郎にとって、長州はただの“行き先”ではなく、「ここに行かなきゃ始まらない」場所だったのではないでしょうか。

三田尻御茶屋(現・英雲荘)の表門。幕末、この一角には脱藩志士らが集った招賢閣が置かれていました(山口県防府市/筆者撮影)そして慎太郎は十月十九日、長州へたどり着くと、浪士たちの集まる「招賢閣」に入ります。
……あの、招賢閣って響き、ちょっと水滸伝の梁山泊っぽくないですか?
慎太郎たちも内心、少しだけそんな気分を味わっていた──かもしれません。ふふふ🐭
この脱藩が歴史を変えた

さあ、中岡慎太郎は脱藩浪士となりました。
この脱藩が、のちの「周旋家・中岡慎太郎」を生みます。
すべてを失った──のではなく、すべての「枷」が外れました。
土佐も、庄屋という立場も捨てた慎太郎は、ここからひたすら西日本を駆け巡ります。
派手な戦や、華やかな“英雄譚”は、正直あまりありません。
でも彼は、折れない志を燃やしながら、情報を集め、藩と藩をつなぎ、人と人を結び直していく。
考え方の違う人たちをつなぐことが、どれだけ難しいか。それでもやり抜いた。
誰にも気づかれないかもしれない。
けれど時代を変えるために、“やらなきゃいけないこと”がある。
激動の時代を、下からぐっと支えた周旋家。
そんな慎太郎さんの、健気だけど力強い姿。
私は応援せずにいられないのです!!
藩を越えた男の誕生
脱藩後の慎太郎で特に名が挙がるのが、「薩長同盟/薩長和解」に関わる動きです。
長州が薩摩を簡単には赦せない空気の中で、それでも「日本が外国に呑み込まれないために」、薩長が手を結ぶ必要がある──そう慎太郎たちは考えたのです。
慎太郎は同志と共に、薩長をつなぐために奔走し続けました。
そこに、土佐・長州・薩摩という区切りはありません。
藩を超えて──日本のために、命を尽くしました。
※この話もまた、徹底的に話しましょう!(🐭記事準備中です)
慎太郎ウォークへ続く道

いかがでしたか?中岡慎太郎の「脱藩まで」の流れは、ひとまず以上です。
足達幸蔵さんが、ありったけのお金を渡して慎太郎を逃がしたように──一つひとつの行動は、それ単体だと“歴史を塗り替える大事件”ではありません。
それでも慎太郎は、ありったけの力を尽くして、日本のために動き続けました。
私が感動した“慎太郎ウォーク”については、ぜひこちらの記事をどうぞ!
驚くべき移動距離に、花丸あげたい!!
最後にもう一度、脱藩前の手紙の一節を振り返りましょう。
『実に神州存亡、恐れながら天朝の衰隆此時に在りと、天下の士皆死を以て尽力する時』

脱藩から慎太郎が斃れるまで、わずか四年。慎太郎は、有言実行の人でした。
彼は、死を以て力を尽くした。
……幕末には、こんな若者がたくさんいた。それを思うたび、私は考えます。
「何のために生きるのか?」と。
私も、大切なもののために命を尽くしたい。
読了ありがとうございます
慎太郎ランドを追いかける 🐭
新しい史料、新しい史跡、そして新しい慎太郎を見逃さないために。
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