坂本龍馬は薩長同盟で何をした?武器・軍艦調達から見る本当の役割

幕末の歴史の中でも、
もっとも有名な場面の一つとして語られる
「薩長同盟」。
坂本龍馬が、犬猿の仲だった
薩摩藩と長州藩の間を取り持ち、
ドラマチックに結びつけた……
というストーリーは、
やっぱりおなじみですよね。
その反面、近年では、
坂本龍馬を同盟成立の中心的な仲介者とする
従来の見方を見直す研究や、
「薩長同盟」そのものの位置づけを
問い直す研究も進んでいます。

えっ、じゃあ結局のところ、
龍馬さんは何もやってなかった……
ってこと!?
……私も、最初はとっても驚きました。
でも、調べてみると、
そんなに単純な話でもないんです。
龍馬一人が、魔法のように
薩長同盟を成立させたわけではありません。
けれど、龍馬もまた藩の枠を越えて、
薩摩と長州の間を動いた人物の一人でした。
この記事は、
土佐ラジオ10-3
「徹底比較③ 真逆コンビが動かした薩長同盟」の
補足記事です。
▶ 動画はこちら
動画の中では、
坂本龍馬さんがこんなふうに言っています。
「諸々入り組んじゅうが、
わしら脱藩浪士が動いたことは確かやき」
……そう。
諸々、入り組んでいるんです。
「龍馬が長州のために武器を買った」と
一言で語られがちな話の裏には、
伊藤俊輔、井上聞多、近藤長次郎、小松帯刀、
そして土佐脱藩浪士たちの動きが
絡み合っています。
おっと、怒涛の登場人物。
人口密度高すぎません!?
でも、ここが重要なんですよ。
誰か一人が、すべてを成し遂げたわけではない。
それぞれの場所で必死に動いた人たちが、
少しずつ次の人へバトンを渡していった。
その積み重ねの先に、
薩摩と長州が手を結ぶ道が見えてきます。
今回は、動画では語りきれなかった
「薩摩名義の武器・軍艦購入」を整理しながら、
坂本龍馬は何をしていたのか、
というところまで見ていきましょう。
【この記事で分かること】
- 長州藩が「薩摩の名義」を
借りなければならなかった切実な背景 - 銃の買い付けや軍艦の交渉で、
それぞれ汗をかいた実務担当者たち - さまざまな学説があるなかで、
龍馬たちはどのように動いたのか
さあ、少し時間を巻き戻します。
長州が武器や軍艦を買えずに困っていた、
慶応元年の夏。
薩長の間で、いったい誰が、
何をしていたのか。
そこから見ていきましょう。
長州は、なぜ武器や軍艦を買えなかったのか
まず、今回の物語の前提となる、
当時の長州藩の状況を少しだけ
おさらいしておきましょう。
慶応元年(1865年)です。
この頃の長州藩は、
「完全に孤立した崖っぷち」の状態にありました。
きっかけは、前年の元治元年(1864年)、
京都で起きた「禁門の変」です。
長州藩は京都御所周辺で幕府側の諸藩と激突し、
その結果、「朝敵」
──つまり朝廷の敵とされてしまいます。
『尊王』を掲げ、
帝と朝廷を誰よりも大切にしていたはずの
長州からすると、
これは身を切られるような屈辱でした。
さらに、追い打ちをかけるように
幕府による「長州征討」も始まり、
長州藩は完全に四面楚歌の状況へと
追い込まれていきます。
当然、幕府の警戒の目も厳しくなります。
迫りくる戦いに備えるため、
長州としてはどうしても
最新の洋式銃や軍艦を
手に入れなければなりませんでした。
けれど、朝敵とされた長州藩が、
自分たちの名義で外国の商人から
武器を買い付けることは、
幕府の目があるため容易には出来ません。
「戦うための武器が必要なのに、
自分たちの名前では買えない」
完全に行き詰まった状況でした。
では、彼らはここからどうやって
道を切り拓いていくのでしょうか。
ここから、長州藩、薩摩藩、
そして土佐の脱藩浪士たちの動きが、
少しずつ入り組み始めます。
「薩摩名義で買う」——でも、誰が考え、誰が動いた?
行き詰まった長州藩の前に、
一つのアイデアが浮上します。

「薩摩藩の名義を使って、
長州のために武器を買えばいい」
このアイデアについて、
平尾道雄氏の『海援隊始末記』では、
坂本龍馬の提案として語られています。
薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎が
会談するはずだったのに、
西郷がまさかのドタキャン。
薩長の仲介に奔走していた
土佐の志士・中岡慎太郎と、
怒る桂小五郎の前で
鮮やかに提案する龍馬の姿は、
まさにヒーローです。
マアマアと怒りを宥めつつ、
武器が買えずに困っている桂小五郎に、
龍馬がこの案を持ちかけた──
という流れがよく知られるところですね。
ただ、ここで少し立ち止まって考えてみると、
この「薩摩名義で買う」という
話を実現させるには、
龍馬一人が思いついただけでは動きません。
薩摩側の了承が必要で、
長崎での実際の交渉が必要で、
武器を購入する人間が必要で……と、
次々と「実務」が発生します。
“『薩長同盟/薩長の提携』は、
1人の英雄が成し遂げたのではなく、
たくさんの人の手で繋がった”
そういうチーム戦として見ると、
この時代の動き方がさらに面白くなってきます。
慎太郎が積み上げた薩長の提携が
潰えるかと思った時に、
坂本龍馬が現れた。
龍馬の提案に様々な人たちも動き出していきます。
次は、それぞれの人物が何をしたのかを、
一つずつ整理していきましょう。
現場を動かした人たち——長崎から薩摩へ

龍馬の提案として語られるこの流れの中で、
長崎の現場では
実際に誰が動いていたのでしょうか。
まず動き出したのが、
長州藩の
井上聞多(馨)と伊藤俊輔(博文)でした。
あの「長州ファイブ」の一員として
イギリスへ渡り、
故国の危機を聞いて急ぎ帰国していた二人です。
二人は当初、
太宰府の薩摩藩邸へ向かいましたが、
そこで薩摩藩の家老である小松帯刀(たてわき)が
長崎に滞在していると知り、
すぐさま長崎へと移動します。
そして慶応元年(1865年)7月、
長崎でついに小松帯刀との会見に臨みました。
ここで二人は
「薩摩藩の名義を借りて武器を購入したい」
と小松に切り出し、
その了承を得ることに成功します。
こうして薩摩側の了承を得たことで、
ここから実務は大きく分けて
「銃の購入」と「軍艦の取得」という
二つの話に枝分かれしていきます。
■【銃の購入ルート】長崎に残った伊藤俊輔

銃の購入交渉で中心となったのが、
伊藤俊輔でした。
長崎に残った伊藤は、
イギリス人商人トーマス・グラバーとの
交渉に当たります。
後年、伊藤自身も
「外国人から直接鉄砲を買った」
という趣旨の回想を残しています。
伊藤俊輔といえば、
のちの初代内閣総理大臣・伊藤博文。
でも、この頃の彼はまだ
「明治の大政治家」ではなく、
長州の若き藩士のひとりです。
長州ファイブとしてイギリスへ渡り、
海外を見てきた伊藤が、
今度は長崎で外国商人と向き合い、
長州のために銃を買おうとしている。
当時の写真を見る限り、
この頃の伊藤くんは
どこかヤンチャそうにも見えます。
この交渉にあたり緊張していたのか、
それとも堂々としていたのか……。
こんな風に、
「伊藤博文」になる前の
伊藤俊輔の姿を想像してみると、
歴史の中の出来事が身近に見えてきて
面白いですよね。
■【軍艦の購入ルート】鹿児島へ走った井上聞多
一方、軍艦の購入に向けて動いたのが、
井上聞多です。
井上は長崎での会見後、
そのまま小松帯刀に同行して、
薩摩藩の本拠地である鹿児島へと向かいました。
軍艦を取得するための
さらなる周旋(周囲への働きかけ)を
行うためです。
そして、この井上の鹿児島行きには、
のちに軍艦ユニオン号の取得に向けて
大奮闘することになる、
社中の近藤長次郎も同行しました。
🐭ポイント💡
井上・伊藤と小松帯刀が
接触できた背景には、
高松太郎や近藤長次郎といった
『社中』に関わる土佐の脱藩浪士たちの
紹介があったと言われています。
社中のメンバーたちが
どこまで主導権を握っていたのかについては、
現代の歴史研究でも慎重な見方があります。
とはいえ、
土佐の脱藩浪士たちが
まったく関わっていなかったわけではありません。
長州側の身元保証をしたり、
買い付けた武器の運搬を支えたりと、
影ながら現場をサポートしていたようです。
長州の若き志士、薩摩の頼れる重臣、
そして藩の枠を持たない土佐の脱藩浪士たち——。
ここまで見てくると、
長州のピンチを救った武器調達は、
一人の天才がひらめいて
全部を動かした話ではなさそうです。
いろんな人が少しずつ動き、
次の人へ渡していった
「バトン」のようなものが見えてきます。
さあここからは、
近藤長次郎の本当の奮闘の始まりです。
近藤長次郎と、軍艦ユニオン号の話

土佐の脱藩浪士であり、
亀山社中の中心メンバーでもあった
近藤長次郎。
彼は「軍艦の取得」という大金が動く
大交渉にあたり、
「上杉宋次郎」という変名を使って
歴史の舞台裏を駆け抜けました。
ここでも『海援隊始末記』をベースに、
軍艦購入をめぐる長次郎の動きを
紐解いていきましょう。
その圧倒的な熱量と、
そんな彼を待っていた悲劇に私は胸が震えました。
■薩摩のトップを説得し、長州の殿様に頼られた「すご腕実務家」
長次郎は、長州の井上聞多とともに
軍艦の購入名義を借りるため、
まずは薩摩藩の本拠地・鹿児島へと向かいました。
しかし、銃ならいざ知らず、
現代換算でおおよそ10〜20億円クラスの大金が動く
「軍艦」となると、交渉は一筋縄ではいきませんでした。
※『海援隊始末記』によると
船価は三万七千七百両。
ここでは一両を3〜5万円程度として、
あくまでざっくり概算しています。
いったん長崎、
そして長州の下関へと引き返した長次郎は、
今度は伊藤俊輔らの紹介で、
長州藩のトップである藩主・
毛利敬親(たかちか)父子のいる
山口へ行くことになりました。
そこで長次郎は毛利侯と直接謁見し、
礼物として
「三所物(みところもの=刀装具のセット)」
を拝領するとともに、
直々に「軍艦購入のために力を貸してほしい」と
依頼を受けるのです。
長次郎は、藩の後ろ盾を持たない脱藩浪士です。
しかも、もとは土佐の饅頭屋の息子でした。
そんな彼が、
長州藩の殿様に直接お目通りを許され、
お土産まで貰って「頼む」と言われている。
それだけ長州が危機的状況で、
藁にも饅頭屋にも縋りたい気持ち
だったのかもしれません。
でもこんなこと、
土佐にいた頃では考えられなかったでしょう。
長次郎はこの時、
どんな気持ちで受け取ったのか──。
人生で最も誇らしい気持ちだったんじゃないか
と思えて、
勝手にもらい泣きしそうです🐭
🐭こぼれ話🐭
「殿様からのプレゼント」というのが、
当時どれほど大きな出来事だったのか。
土佐勤王党の武市半平太にも、
それがよく分かるエピソードがあります。
文久三年二月、
武市は妻・冨子への手紙に、
土佐の前藩主・山内容堂から
箱入の菓子をもらったことを
書き残しています。
半平太はその感激を、
「実に身にあまり、
有り難き事にて候。」
と書いていました。
お殿様からのプレゼント、
つまり拝領品は、
それほど胸に迫るものだったのです。
さて、そんな長州の殿様直々の期待を
背負った長次郎は、
再び鹿児島へ飛びます。
薩摩では反対論もありましたが
粘り強く説得し続け、
ついに薩摩藩の実権を握っていた
島津久光の許可を取り付けたのです。
饅頭屋長次郎が見せた意地は、
まさに土佐のいごっそうの魂を感じます🐭
こうして長崎のグラバーから買い受けたのが、
蒸気船「ユニオン号」でした。
■立場によって名前が変わる?「ユニオン号」をめぐる大混乱
さて、この苦労して手に入れた軍艦ですが、
立場によって名前がバラバラに変わります。
- ユニオン号:
購入前から使われていた船名。
グラバー商会や社中側の文脈で出てくる名前です。 - 桜島丸(さくらじままる):
名義を貸した「薩摩藩」側での呼び名です。 - 乙丑丸(いっちゅうまる):
長州藩側での呼び名です。
長州ではこの船を自藩の船として
運用するつもりで、
この名を用いていました。
同じ船なのに名前が三つ。
もう船も「私は誰……?」と
なっていたかもしれません。
これだけ名前があること自体、
当時の薩摩・長州・社中の思惑が
複雑に絡み合っていた証拠ですねぇ。
実は、長次郎と長州の井上聞多の間には、
秘密の取り決め(桜島丸条約)がありました。
「普段は社中のメンバーが乗り込んで
商業活動をし、
いざ戦争になったら武装して
薩長両藩のために戦う」
という、藩の枠を超えた
社中の夢と希望が詰まった内容です。
しかし、これがすれ違いを生んでしまいます。
長州の海軍局総官だった中島四郎は、
この秘密条約を直前まで
知らされていませんでした。
長州としては「乙丑丸」と名付け、
自分たちの船として運用する気満々だったため、
「社中の人間が乗るなんて聞いていない!」と、
下関の港は大揉めに揉めてしまいます。
下関にいた龍馬は、高杉晋作らと相談して
「いったん船を大坂へ回航しよう」
と提案しました。
けれど長次郎は
「まだ長州から船の代金が支払われていない。
筋が通らないから長崎へ戻すべきだ」と
一歩も譲りませんでした。
薩摩を説得し、長州からも頼られ、
社中の仲間たちの夢も背負い、
でも現場の歯車が噛み合わない。
誰よりも必死に走り回った長次郎だからこそ、
この板挟みの状況は
相当しんどかったのではないかと思います。
■トラブルはあっても、長州の志士たちが認めた長次郎の功労
結局ユニオン号を巡るトラブルは、
- 社中に有利だった桜島丸条約から、
社中のことをほぼ削除。 - 長次郎の主張通り船は長崎へ回航
と、いうことで落ち着きました。
さらにこの翌年、
慶応二年の一月に、
独断で英国留学を計画した長次郎は
社中メンバーから責められ、
切腹という悲しい最期を迎えることになります。
この二つの出来事だけを見ると、
もしかしたら、長次郎がただの
「意固地なトラブルメーカー」に
見えるかもしれません。
けれど、軍艦購入という
大仕事を成し遂げた近藤長次郎は、
歴史に埋もれてしまったわけではないことだけは、
強くお伝えしておきたいのです。
何よりの証拠に、
長州の井上聞多は、桂小五郎へ宛てた手紙の中で、
長次郎(上杉)の功績を
このように熱く訴えかけています。
「上杉(長次郎)も、
このたびは並々ならぬ苦労をいたしました。
長崎の藩邸監督役などが
ずいぶん俗論を述べたそうで、
その対応にも苦心したと聞いています。
さらに、彼には
イギリスへ行く志があったところ、
我が長州藩のために
二、三日も出発を遅らせてくれました。
まさか粗略にはなさらないとは
思いますが、
長州藩として、ぜひきちんと
礼をしていただきたいと考えています。
金であれば、
百両なり二百両ほどを
与えてもよいのではないでしょうか」(井上聞多/慶応元年11月10日付 桂小五郎宛書状より意訳)

い、いのうえぇ〜〜〜😭
忘れられがちな他藩の人の頑張りを、
ちゃんと桂さんに伝えてくれている……!
この瞬間、井上聞多は
“ともだちになりたい長州人ランキング”
第1位になりました(私調べ)😭💖
井上は、
長次郎がどれだけ長州のために
身を削ってくれたかを、
痛いほど分かっていたのですね。
伊藤俊輔も彼の功労を称え、
長次郎は長州から手厚い恩賞を受けて
長崎へ帰ったとされています。
さらに高杉晋作も、
長次郎が長州を去る際に、
彼への敬意を感じさせる漢詩を贈りました。
裏方の実務は、
決して綺麗事ばかりでは進みません。
時には揉め、時にはすれ違い、
表からは見えにくい苦労を背負うこともあります。
それでも、長次郎が
このユニオン号のために命がけで走ったことを、
長州の志士たちはちゃんと見ていた。
現代でも、
裏方の仕事が報われないことはありますよね。
だからこそ、
他藩の脱藩浪士だった長次郎の働きを、
井上や伊藤、高杉たちが
きちんと認めていたことに、
私は胸が熱くなるのです。
では、龍馬さんは何をしていたのか
ここまで長崎や薩摩の現場の動きを見てくると、
少し不思議に思うかもしれません。
銃の購入交渉で中心になったのは、
伊藤俊輔。
ユニオン号の取得に向けて大きく動いたのは、
近藤長次郎。
薩摩側との交渉では、
井上聞多や小松帯刀の存在も大きい。
……あれ?
では、坂本龍馬は何をしていたのでしょうか。
■龍馬は「銃を買った人」ではなく、止まりそうな話を動かした人
まず、慶応元年(1865年)の閏五月。
桂小五郎と西郷隆盛が
下関で会談するはずだった計画が
直前に頓挫します。
西郷隆盛を長州へ連れてくるはずだった
中岡慎太郎は、呆然として長州へ戻ってきました。
長州の桂小五郎からすれば、
たまったものではありません。
けれど、その場にいた龍馬が桂の怒りを受け止め、
薩摩名義で武器を買う道を開きます。
その流れは、やがて軍艦ユニオン号の取得にも
つながっていきました。
前年から慎太郎が地道に進めていた
「薩長の和解」に大きな困難が
立ちはだかったところに、
龍馬は風穴を開けたのです。
そして近藤長次郎と長州の間で
「桜島丸条約を巡るトラブル」が起きた時も、
高杉晋作と共に落とし所を探りました。
ここまでがこの記事でも紹介した内容です。
さらにこの先も、龍馬の働きは止まっていません。
■武器だけではない。人や藩のあいだを繋ぐ龍馬
薩摩が米不足で困っていた時には、
長州の米を薩摩へ送る話にも関わっています。
武器を助けてもらった長州が、
今度は米で薩摩を助ける。
この「助け合いの流れ」を
作ろうとしたところにも、
龍馬の動きが見えてきます。
そして慶応二年(1866年)正月。
龍馬は、京都で薩摩と話し合っているはずの
桂小五郎に会いました。
この時、なかなか進まない薩長の話し合いを
龍馬が一喝して遂に同盟が成立した──
という逸話は、
ドラマやマンガなどで見たことが
あるのではないでしょうか。

ただし、この場面については、
すでに薩長の連携はかなり進んでいたと
見る考え方もあります。
なので、ここではその言葉をそのまま
「薩長同盟の決定打だった!」とは言いません。
けれど、その後に桂小五郎が龍馬へ
「この薩長の話した内容に間違いないのか」と
念入りすぎる手紙を送ったこともまた有名です。
坂本龍馬が薩長同盟を結ばせたのでもなく、
なーんにもしてなかったのでもなく(笑)、
多くの困難があった薩長の和解が進むように、
「流れ」を作っていった人
……だったのかもしれません。
■慎太郎が耕した土台に、龍馬が風を通した
そして当サイト・中岡慎太郎ランドとしては、
我らが中岡慎太郎について
語らずにはいられません。
慎太郎は
文久三年(1863年)に土佐を脱藩して、
長州へ行きました。
元治元年(1864年)は
長州のため、薩摩や京都の情勢を調べ、
禁門の変では長州方として参戦。
さらにこの年、
筑前(福岡)の志士たちが
薩長の和解のために本格的に動き出したことから、
慎太郎もまた命をかけて奔走します。
🐭合わせて読んでいただきたい!
慶応元年の中岡慎太郎の奔走と、
驚きの生涯の総移動距離についてのまとめ⬇
地道に情報を集めて信頼の土台をつくった、
誠実な慎太郎。
行き詰まった空気を、
アイデアと人脈で突破した、
天才肌の龍馬。
そして彼らとともに長次郎たちも
命がけで駆け抜けたからこそ、
不可能と言われた薩摩と長州の提携が、
少しずつ現実のものになっていったのです。
度重なるピンチと、
ピンチのたびに現れる仲間たち。
こうして見ると、まるで
胸が熱くなるバトル漫画みたいに
見えてきませんか🐭
薩長同盟は、バトンをつないだチーム戦だった
長州藩の崖っぷちのピンチから始まり、
長崎での泥臭い銃の買い付け、
軍艦ユニオン号をめぐる板挟みのドラマ、
そして龍馬さんが通した絶妙な「流れ」まで。
こうして舞台裏を一つずつ追いかけてみると、
一つのことが見えてきます。
誰もが知る「薩長同盟」という歴史の偉業は、
誰か一人が魔法のように
成し遂げたものではありません。
目の前の危機に必死に抗おうとした人たちが、
それぞれの場所で動き、
少しずつ次の人へバトンを渡していった。
その積み重ねの先に、
薩摩と長州が手を結ぶ道が見えてきたのです。
時間を大きく巻き戻せば、
土佐勤王党の武市半平太もまた、
「薩摩と長州と土佐が力を合わせて、
新しい日本を作る」
という大きな夢を抱き、
志半ばで倒れていきました。
慎太郎の前には、
筑前(福岡)の勤王党の志士たちによる、
命がけの熱い周旋活動もありました。
そのバトンを受け取った中岡慎太郎が、
一年以上かけて桁外れの機動力で
薩長の間を歩き回り、
話し合える「土台」を耕した。
それが崩れかけた絶体絶命のピンチに、
坂本龍馬という男がひょっこり現れて、
実務という名の新しい「風」を通した。
そしてその流れの中で、
近藤長次郎が、伊藤俊輔が、
井上聞多が、小松帯刀が、
それぞれの持ち場で命がけのスクラムを組み、
不可能とも思えた武器や軍艦調達のバトンを
つないでいきました。
一人の天才ヒーローが、
すべてをひっくり返したわけではない。
それぞれが、自分にできる全力を尽くした。
その熱いバトンリレーの先に、
あの「薩長同盟」という大きな一歩が待っていた。
そう考えてみると、
歴史の教科書の数行に書かれた出来事が、
なんだかとても愛おしく、
そして胸が震える物語に見えてきませんか。
■動画「徹底比較③ 真逆コンビが動かした薩長同盟」でさらに楽しむ
今回の記事でご紹介した、
武器や軍艦をめぐる
「諸々入り組んじゅう」舞台裏。
薩長同盟のエピソードを、
土佐ラジオでは
坂本龍馬と中岡慎太郎の
「真逆さ」に焦点を当てつつ、
会話形式で楽しく紹介しています。
地道に土台を築いた慎太郎と、
ピンチに突破口を開いた龍馬。
二人の掛け合いを楽しみながら、
志士たちがつないだ熱いバトンの続きを、
ぜひ動画でもお確かめください!


