奇兵隊だけじゃない!中岡慎太郎が率いた長州「忠勇隊」とは?

長州の部隊といえば、奇兵隊。
……というイメージが強いのですが、幕末の長州には、遊撃隊、力士隊など、さまざまな隊がありました。
その一つが「忠勇隊」です。
そしてこの忠勇隊。
のちに隊長・総督を務めるのが、中岡慎太郎です。
土佐の庄屋のせがれが、いつの間にやら長州で隊長です。
忠勇隊は、禁門の変へ向かった脱藩浪士たちの部隊でした。
では、どんな人たちが集まり、どうやって軍として動いていたのか。
そして禁門の変で敗れたあと、なぜ中岡慎太郎が彼らを率いることになったのでしょうか。
この記事では、真木外記が残した『天王山義挙日記』『忠勇隊日記』も読みながら、その姿を追います。
奇兵隊ほど知られてはいない。
でも、ちょっとニッチだからこそ面白い。
そんな忠勇隊を見ていきましょう。
奇兵隊だけじゃない!長州にはいろんな隊があった

山口県・大田絵堂戦役の諸隊を紹介する看板(筆者撮影)
幕末の長州には、奇兵隊をはじめ、さまざまな部隊が存在しました。
こちらは、私が山口県美祢市の大田・絵堂の戦いの史跡を訪れたときに撮影した看板です。
膺懲隊、御楯隊、遊撃隊、南園隊……。
名前を見ているだけでも、いろんな隊があったことが分かります。
そして禁門の変を前に京都へ向かった浪士たちも、ひとつの隊だけで動いていたわけではありません。
真木和泉や久坂玄瑞らが率いた「清側義軍」にも、いくつもの隊が属していました。
その一つが、今回の主役。
「忠勇隊」です。
忠勇隊とは?招賢閣の浪士たちから生まれた隊
文久三年(1863)に起きた八月十八日の政変。
そして元治元年(1864)に、多くの長州系志士が命を落とした池田屋事件。
追い詰められた長州は、朝廷への嘆願を掲げ、軍勢を京都へ向かわせます。
その中にいたのが、忠勇隊です。
中心となったのは、長州の招賢閣に集まっていた脱藩浪士たち。
真木和泉がこれを統率し、土佐からも松山深蔵、田所壮助、池内蔵太、上岡胆治、千屋菊次郎、那須俊平……と、多くの浪士が加わっていました。
元治元年六月、彼らは京都へ向かいます。
平尾道雄『陸援隊始末記』では、六月十六日、真木和泉と久坂玄瑞が忠勇隊と諸隊約三百名を率いて三田尻を出立したとされています。
翌十七日、『天王山義挙日記』では上関に到着。久坂玄瑞・来島又兵衛ら諸隊長が集まり、軍議を行っています。
このころの動きを細かく残しているのが、真木和泉の弟・真木外記の『天王山義挙日記』です。
ところがこの日記には「本日、忠勇隊結成!」みたいな景気のいい記録はありません。
いつ結成されたのか。
なぜ「忠勇隊」という名前になったのか。
そういうことは書かれず、すでに存在する隊として、さらっと「忠勇隊」の名前が登場します。
結成記念日も命名記念日も、せっかく日記に残すなら書いておいてほしかったです。
……まあ、そんな場合じゃなかったのは、読めばよく分かるのですが。
そしてこの日記。
禁門の変での動きも重要なのですが、私が目を留めたのは、その手前でした。
誰が隊長で、誰が斥候なのか。
各地から集まった浪士たちを、どうやって一つの軍として動かそうとしたのか。
山崎では、どんな決まりごとが回されていたのか。
つまり、人事・軍令・回達です。
戦場の話も大事。
でも私は、こういうところが気になる。
というわけで、ここからは『天王山義挙日記』をのぞきながら、忠勇隊の中身を見ていきます。
『天王山義挙日記』から見る忠勇隊
忠勇隊を率いた・真木和泉の弟、真木外記。
真木直人、真木益夫とも呼ばれる人物です。
彼が残した『天王山義挙日記』は、元治元年六月十五日から七月十九日まで、主に禁門の変前後の動きを記したもの。
大正14年刊行の『維新日乗纂輯 第2』に収録されています。
⬛︎忠勇隊の人事が、いきなり面白い
『天王山義挙日記』の六月十六日に、こんな記述があります。
早朝湯田御殿ヨリ書翰到来ス
野唯人持参役割之書也
益夫松山両人ヲ忠勇隊長トス
田所壮助、宮田半四郎ヲ斥候役トス
『天王山義挙日記』の六月十六日
野唯人――中村円太が、五卿のいる湯田から人事の書かれた書状を持ってきました。
そこに書かれていた役割は、こうです。
- 忠勇隊長:真木外記(益夫)・松山深蔵
- 斥候役:田所壮助・宮田半四郎
まず面白いのが、この顔ぶれ。
真木和泉・真木外記・宮田半四郎は久留米。
松山深蔵・田所壮助は土佐。
つまり、長州で編成され、長州とともに動く部隊なのに、上の役職に長州人が見えません。
忠勇隊には各地から脱藩浪士が集まり、とくに土佐人が多くいました。
そう考えると、隊長の一人に土佐出身の松山深蔵が選ばれたのも、何か意味があったのかもしれません。
ここからは、ちょっと人事表を眺めながら想像する時間です。
松山深蔵、慎太郎とちょっと似ている
松山深蔵について調べてみると、高岡郡津野山郷北川村の庄屋の出身。
中岡慎太郎は、安芸郡北川郷の大庄屋です。
「北川村の庄屋」と「北川郷の大庄屋」。
ニアミス感がすごい。
しかも深蔵もまた土佐勤王党に加盟し、脱藩したのも文久三年。
北川。庄屋。土佐勤王党。文久三年脱藩。
ここまで重なると、忠勇隊長の決め手は「北川の庄屋か!?」と身を乗り出してしまいます。
しかし、そんなわけない。
もう少し深蔵の経歴を見ます。
彼は八月十八日の政変後には、三条実美の従士となったようです。
五卿とのつながり、勤王運動での経験、脱藩後の活動歴。
実は、このあたりも慎太郎と重なります。
そうしたものが、忠勇隊長に選ばれた背景にあったのでしょうか。
……分かりません。
分からないんですが、この共通点はおもしろい。
そして中村円太、あなたは何者なんですか
そしてもう一人、想像力を働かせたくなる人物がいます。
この人事通達を運んできた中村円太です。
円太は筑前(福岡)の人。変名が野唯人です。十五歳で脱藩し、かなり早い時期から志士として活動した人物です。
真木和泉の右腕、あるいは秘書のような立場でもあったとされます。
そんな人物が、人事の書状を持ってきた。
ところが忠勇隊では、目立った役職についていない。
さらに気になることに、のちに中岡慎太郎らが引き継いだ忠勇隊では、名簿にもその名前が見当たりません。
人事通達を持ってくるほど真木和泉に近い人物なのに、忠勇隊として表舞台には出てこない。
なんで!?
ここも、日記は何も教えてくれません。
忠勇隊の人事は、出身藩のバランスを考えたものだったのか。
それとも、それまでの実績や人脈を見た実力主義だったのか。
なぜ松山深蔵が隊長になったのか。
なぜ中村円太には目立った役職がないのか。
そして後年、なぜ中岡慎太郎がこの忠勇隊を引き継ぐことになるのか。
史料には、答えが書いてありません。
だからこそ、この余白を眺めて想像するのが楽しいのです。
⬛︎寄せ集めではない。浪士たちをまとめた「軍令」

こちらは、真木外記の『天王山義挙日記』に記された軍令です。
ただし、「忠勇隊独自の軍令」とは書かれていません。
日記の流れを見る限り、忠勇隊を含む、天王山周辺に集まった諸隊全体へ向けた軍令だった可能性があります。
全部読むとなかなか長いので、気になったところをかいつまんで見てみます。
まず、軍令のいちばん最初。
- 他藩・自藩の区別を立てて、功を争わないこと
いろんな藩の出身者が集まる浪士軍らしい一条です。
そして、こんな決まりもあります。
- 軍は整然と、静粛に進むこと
- 農民はもちろん、商人にも無理を言わないこと
- 山林や田畑を荒らさないこと
このころの長州は、失った立場を取り戻すため、朝廷への嘆願を掲げて京都へ向かっています。
そこで勝手に暴れたり、住民に迷惑をかけたりしては話になりません。
かなり神経を使って、軍を統制しようとしていたことが分かります。
そして、読んでいて私がちょっと笑ってしまったのがこちら。
やたら「勝手に議論するな」と言われています。
軍令には、
- 議論や喧嘩をしないこと
- 策略について思いついたことがあっても、勝手に論じず中軍へ申し出ること
- 敵の士気や実情を、むやみに評論しないこと
と、議論や評論に関する注意が何度も出てきます。
もちろん、「考えるな」「意見を言うな」という話ではありません。
作戦について意見があるなら、勝手にあちこちで論じるのではなく、正式に中軍へ持ってこい、ということです。
……そこまで念を押す必要があったんですね。
中岡慎太郎も議論好きで、「いつものように長々と議論してしまって申し訳ない」と謝るような手紙を残しています。
慎太郎さん、この軍令、大丈夫でしたか。
もっとも、これは慎太郎一人の話ではありません。
少なくとも軍令を作る側は、浪士たちが各々で議論したり、口論したり、敵情を好き勝手に評論したりする事態を、かなり警戒していたようです。
しかも最初の方には、
「進退は粛々静々に」とも書いてある。
議論するな。 勝手に評論するな。
騒ぐな。 静かに進め。
……どんだけ静かにしろって言われてるんですか。
⬛︎山崎での回達――浪士軍、かなり細かい

同じく真木外記の『天王山義挙日記』には、山崎で諸隊へ回された「回達」も三つ記されています。
回達とは、各隊へ順に回して知らせる通達、いわば回覧のお達しです。
先ほどの軍令が「静かにしなさい」──ではなく、軍全体の基本原則を示したものだとすれば、こちらはもっと具体的。
山崎滞陣中にどう行動するのか。
町の人々とどう接するのか。
緊急事態にはどう連絡するのか。
かなり現場寄りのルールです。
日記に書かれている順番に、要点を見てみます。
六月二十七日
・自分たちは「正義」を貫き、至誠をもって朝廷へ嘆願するために来ているのだから、無礼な振る舞いをしない。
・百姓・町人には憐れみをもって丁寧に接する。
・郡山番所通行時の振る舞いに注意し、可能なら通行自体を避ける。
・特別な事情がない限り、甲冑姿で市中を往来しない。
六月二十六日
・諸隊の出張先で急変があれば、大砲の空砲を合図にする。
・本陣で急変があれば、梵鐘を二度鳴らして知らせ、諸隊は大砲の空砲で応答する。
六月二十九日
・山崎近辺の町家への立入りを、諸隊一統で禁止。
・買い物が必要なら従者を出してよいが、飲食は禁止。
・斥候・探索は町家立入禁止の例外だが、市中での飲食は控える。
・他藩との応接に出る使番も例外。
……六月二十七日、二十六日、二十九日。
日付が前後していますが、これは真木外記さんがこの順番で書いています。私ではありません。
さて、こうして並べると、回達はなかなか厳しい。
- 町家立入禁止
- 市中での飲食禁止
- 甲冑でうろつかない
- 空砲と梵鐘で緊急連絡
旧暦六月〜七月なので、真夏のルールです。
斥候のように町家立入禁止の例外となる役目でも、市中での飲食は控えるように言われています。
時代は幕末なのに、昭和の運動部みたいな厳しさです。斥候役の田所くんと宮田くんの熱中症が危ぶまれます。
どうしてここまで厳しくしたのでしょうか。
その理由がよく表れているのが、六月二十七日の回達です。
正々堂々邪論ヲ排シ正義一意ニ相貫徹
至誠ヲ以テ朝廷ニ奉歎願置候事ニ付
別テ無禮ヶ間敷事有之間敷
百姓町人等哀憐ヲ加ヘ懇々取扱可申事
自分たちは「正義」を貫き、至誠をもって朝廷へ嘆願するために来ている。
だからこそ、無礼な振る舞いをしてはならない。
百姓や町人にも、丁寧に接しなければならない。
彼らはただ武装して京都へ押しかけたつもりではありません。
自分たちは朝廷へ正義を訴えるために来た。
だからこそ、それにふさわしい軍でなければならない。
軍令や回達を読んでいると、そんな意識がにじんできます。
そして、それでも。
この先に待っていたのが、禁門の変での敗北でした。
──切ない。ひたすら切ない。
禁門の変後、忠勇隊はどうなった?
⬛︎禁門の変で何を失ったのか――そして慎太郎が忠勇隊を継ぐ
元治元年七月十九日。
忠勇隊を含む諸隊が京都へ進み、禁門の変が起きました。
主戦派の中心的存在だった来島又兵衛は、蛤御門付近で銃撃を受けて戦死。
清側義軍を率いた久坂玄瑞も、鷹司邸で自刃します。
忠勇隊は久坂玄瑞らとともに堺町御門方面へ攻め入りますが、敗退。
総督・真木和泉とともに、山崎の天王山へ退きました。
そして七月二十一日。
真木和泉と忠勇隊の16名は、天王山で最期を迎えます。
禁門の変によって、長州側は来島又兵衛、久坂玄瑞、真木和泉ら多くの人材を失いました。
忠勇隊にとっても、隊を率いてきた中心人物を失う大きな敗戦でした。
一方、そのころ慎太郎は、忠勇隊とは別行動で京都中を走り回っています。
戦況を探り、情報を運ぶ。禁門の変での慎太郎の動きについては、別の記事で詳しく書いています。
▼敗戦速報!?禁門の変で情報を運ぶ中岡慎太郎
⬛︎敗戦後、真木外記と慎太郎が訴えたこと

禁門の変の翌月、八月。
「浪士一統」から、長州藩主・毛利敬親と世子・元徳へ向けて、長い嘆願書が送られました。
そこでは、一同が「泣血して歎願」しています。非常に長い手紙なので、要点をまとめると、
- 禁門の変を、ただの乱暴・暴発として謝罪しないでほしい
- 三大夫(長州の三家老)を処分しないでほしい
- ここで恭順すれば、松平容保ら「姦賊」の術中にはまる
- 戦死した仲間まで乱臣狂士扱いされたら、死者も浮かばれない
という訴えです。
長州側が恭順へ傾き、禁門の変そのものまで「乱暴」として処理されようとすることに、浪士たちは強く反発しました。
忠勇隊として戦った彼らにとって、これは単に「戦に負けた」という話ではありません。
ここまで見てきた軍令や回達では、町人や農民への振る舞いまで細かく戒め、「正義」と「至誠」を掲げて、自分たちなりに軍を律しようとしていました。
もちろん、軍令や回達が「全員がすべて守った」ことの証明ではありません。
けれども、彼らがどんな軍であろうとしたのかは見えてきます。
だからこそ、その挙兵そのものを後から「乱臣狂士の妄動」と片づけられることは、耐え難かったのでしょう。
自分たちは何のために京都へ向かったのか。 何のために仲間が死んだのか。
そこまで否定されてしまう。
先ほどの軍令や回達を読んだあとでこの手紙を見ると、長く、切々と訴え続ける理由が、少し分かる気がします。
そして、この嘆願書の差出人は「浪士一統」。
その添え状に連名しているのが、真木外記と中岡慎太郎です。
宛先は水野丹後や中村円太ですが、二人は「御両殿様へ仰せ上げ下されたく願い奉り候」と、毛利敬親・元徳へ取り次ぐよう求めています。
この連名からも、このころ真木外記と中岡慎太郎が、浪士たちを代表して動く立場にあったことがうかがえます。
⬛︎中岡慎太郎、いつの間にか忠勇隊長。そして総督へ
真木外記は『天王山義挙日記』のあと、八月五日から新たに『忠勇隊日記』を書き始めました。
その冒頭には、忠勇隊のメンバーがずらりと並びます。
伍組に分けられた隊士たち。
そして、その前に記されているのが、
- 長谷川鉄之進源正傑
- 真木外記平益夫
- 中岡慎太郎藤原道正
の三人です。
……三人とも、名前が急に仰々しい。
さて、この『忠勇隊日記』には「本日、中岡慎太郎を隊長に任命!」といった記録はありません。
しかし、このころの忠勇隊は長谷川鉄之進を総督、真木外記と中岡慎太郎を隊長とする体制になっていたとされています。
『天王山義挙日記』でも結成の日を書いてくれなかった真木外記さん。
『忠勇隊日記』でも、人事の経緯は書いてくれません。
華々しい就任式などはなかったのでしょうか。
「本日、中岡慎太郎、忠勇隊隊長就任!」
くらい書いてくれてもいいのに、相変わらずストイックです。
そして日記は、さっそく慌ただしく動き始めます。
八月七日には、四国艦隊による下関砲撃に対応するため出張した隊士たちの名前が並びます。
その数、およそ二十五名。
さらに八名ほどが病気のため出張しなかったことも記されています。
冒頭の名簿はおよそ三十五名。
つまり禁門の変で大きな敗北を喫したあとも、忠勇隊は三十名ほどの隊士を抱え、次の事態へ動こうとしていました。
ただし、この出張では大きな活躍の場を得ないまま、四国艦隊との戦いは終わります。
そして三か月後の十一月十八日。
三条実美の記録には、こんな一文が残っています。
「十一月十八日
真木外記、中岡慎太郎を以て忠勇隊総督とす」
(『三条実美公年譜』より)
今度は、真木外記と中岡慎太郎が「忠勇隊総督」です。
おめでとうございます、慎太郎。
いつの間にか隊長になり、気づけば総督になっていました。
⬛︎忠勇隊はいつ終わったのか?しずかに消えた隊
では、この忠勇隊はいつまで続いたのでしょうか。
これが、はっきりしません。
真木外記の『忠勇隊日記』は、八月十四日で記録が終わっています。
日記も、ここで突然おしまい。
結成の日を書いてくれなかった真木外記さん、終わりの日も書いてくれませんでした。
とはいえ、忠勇隊そのものが八月十四日に終わったわけではありません。
先ほど見たように、十一月十八日には三条実美の記録に、真木外記と中岡慎太郎を「忠勇隊総督」とする人事が残っています。
少なくともこの時点では、忠勇隊という組織はまだ存在していました。
ところが、その翌月。
十二月には高杉晋作が功山寺で挙兵しますが、このころになると忠勇隊のまとまった活動は見えなくなっていきます。
「本日をもって忠勇隊解散!」
そんな分かりやすい記録も、今のところ見当たりません。
禁門の変で多くの仲間を失い、それでも隊を立て直し、四国艦隊来襲にも動き、十一月には新たな総督まで定めた忠勇隊。
それでも、時勢が激しく動いていく中で、その姿は次第に史料から見えなくなっていきます。
結成の瞬間がはっきりしないのと同じように、終わりも静かでした。
忠勇隊は、いつの間にか歴史の表舞台から姿を消していきます。
ところで「中岡慎太郎藤原道正」って誰ですか
先ほど、『忠勇隊日記』冒頭のメンバー表をさらっと載せました。
そこに、何食わぬ顔でこんな名前がありました。
中岡慎太郎藤原道正。
……誰ですか。
しかも中岡慎太郎だけではありません。
長谷川鉄之進には「源正傑」。
真木外記には「平益夫」。
源氏、平家、藤原氏。
忠勇隊、急にやんごとなくなりました。
この名乗りを調べてみると、幕末の名前の使い方だけでなく、坂本龍馬の「平家の末裔」をめぐる話まで出てきました。
ここで全部始めると、忠勇隊の記事が二度と帰ってきません。
というわけで、この名前の話は別の記事でじっくりやっています。

動画と名前の記事は10月31日公開予定です!
忠勇隊長就任から見える、中岡慎太郎の立ち位置
忠勇隊は、長く存続した巨大な軍事組織ではありません。
けれども、禁門の変を前に長州へ集まった各地の浪士たちをまとめ、軍令や回達を定め、実際に京都へ向かって戦った部隊でした。
そこには、多くの土佐脱藩浪士も参加しています。
そして禁門の変で真木和泉らを失ったあと、その浪士たちを率いる位置に立った一人が、中岡慎太郎でした。
忠勇隊長として活動した期間は、決して長くありません。
それでも私は、これは慎太郎を見るうえで、とても重要な出来事だと思っています。
のちに慎太郎の陸援隊にも参加した田中光顕は、当時をこう振り返っています。
「当時の招賢閣の浪人組の巨頭は、真木和泉だが、
彼の歿後は、中岡慎太郎が隊長と目されてゐた」
「維新風雲回顧録」より
多くの浪士が集まる長州で、慎太郎は単なる「浪士の一人」ではありませんでした。
真木和泉亡きあと、次に浪士たちを率いる人物と見られ、実際に忠勇隊の隊長、そして総督にも任じられています。
もともと、慎太郎は北川郷をまとめる大庄屋の家に育ち、土佐では五十人組の伍長も務めていました。
つまり、ここで突然、人をまとめる立場になったわけではありません。
土佐を脱藩して長州へやって来た一人の浪士が、経験を積み重ね、いつしか藩を越えて集まった人々を率いる側に立っていました。
これは、慎太郎の立ち位置が大きく変わっていく一つの節目だったのではないでしょうか。
そして、長州で浪士たちを率い、軍として動いた経験は、慎太郎にとって大きな学びになりました。
のちに彼が記した「時勢論」では、長州の軍制改革についても語られています。
忠勇隊そのものは、やがて静かに姿を消していきました。けれども、そこで得た経験は消えません。
土佐の山あいから脱藩してきた慎太郎は、人と出会い、戦い、敗れ、今度は人を率いる側へ。
また一歩、次へ進んでいきます。
読了ありがとうございます
慎太郎ランドを追いかける 🐭
新しい史料、新しい史跡、そして新しい慎太郎を見逃さないために。
読了ありがとうございます
慎太郎ランドを追いかける 🐭
新しい史料、新しい史跡、そして新しい慎太郎を見逃さないために。
読了ありがとうございます
慎太郎ランドを追いかける 🐭
新しい史料、新しい史跡、そして新しい慎太郎を見逃さないために。
読了ありがとうございます
慎太郎ランドを追いかける 🐭
新しい史料、新しい史跡、そして新しい慎太郎を見逃さないために。

