陸援隊の暮らしは?部屋・食事・調練・給料事情を史料から見る

幕末に生まれた、陸援隊。
中岡慎太郎が率いた、討幕を目指す浪士たちの部隊です。
では、そんな陸援隊士たちは、普段どんな暮らしをしていたのでしょうか。
陸援隊の屯所は、京都・白川村にあった土佐藩邸。
ここには大人数を収容できる兵営があり、なんと隊士には一人一室が与えられていました。
浪士たちが大部屋で雑魚寝しているのかと思ったら、個室あり!?
なかなかの待遇に、ちょっと驚きました。
30秒で分かる陸援隊の暮らし
| 項目 | 暮らしぶり |
|---|---|
| 部屋 | 一人8畳 |
| 食事 | 白飯と香の物。おかずは自力 |
| 調練 | 洋式銃隊の調練 |
| 隊の資金 | 定額支給ではなく「自営自取」 |
▼「意外と広い!」陸援隊屯所跡は現在の京都大学
陸援隊の部屋は、一人8畳
平尾道雄『陸援隊始末記』によると、陸援隊屯所となった建物は、かつて吉田東洋が摂海警備のため、摂津・住吉に建てた兵営を移したものだといいます。
吉田東洋は、文久2年(1862)に土佐勤王党によって暗殺された土佐藩の参政です。
陸援隊が白川村を屯所としたのは、その5年後の慶応3年(1867)。
幕末のことですから、兵営をいったん解体して運び、白川村で組み直したのでしょうか。
どうやって移したのかまでは、私の確認した史料からは分かりません。
ただ、大人数を収容できる、なかなか規模の大きな兵営だったようです。
陸援隊士は、名簿上では約50名。
時期によって人数は増減しましたが、なんと隊士には、長屋の8畳一室が一人ずつ与えられていました。
は、8畳!?
広くないですか。
参考までに、江戸文化研究家・杉浦日向子さんの著書をめくりながら、江戸の長屋事情も確認してみました。
庶民の裏長屋でよく見られた「九尺二間」は、居間が4畳半ほど。
そこに台所兼用の土間がつく造りです。
それを考えると、一人で8畳。
陸援隊士、なかなかいい部屋をもらっています。
現代でも「6畳ワンルーム」と聞けば、ごく普通の一人暮らしを想像できるでしょう。
陸援隊士、現代人よりのびのび暮らしていた……かもしれません。
ちなみに私は今、2畳ほどの書斎コーナーでこの記事を書いています。
陸援隊士の4分の1です。
陸援隊の食事は、飯と漬物。おかずは自力
陸援隊士には、食事も用意されていました。
ただし、こちらは8畳一間ほど羨ましくありません。
土佐藩邸から炊き出されたのは、白飯と香の物。 白木のお弁当箱に入れて届けられたそうです。
白木のお弁当箱。 響きはちょっと素敵です。
しかし、中身は――
-
問)陸援隊のご飯に、おかずはありますか?
-
答)ありません。白飯と漬物のみです。
さすがにこれでは、血気盛んな若者たちのお腹は満たされません。
そこで隊士たちは、隣の若王子村からやってくる村人から牛肉を買っていました。
買い方が、なかなか面白い。
村人を呼び止め、窓から銭を結んだ帯を吊り下げます。
すると村人は、その金額分の牛肉を包み、帯に縛りつける。 隊士はそれを、窓から再び吊り上げます。

幕末式Uber Eatsでしょうか。
これはちょっと楽しそうです。
ただし、この話を伝えた陸援隊士の大江天也によると、牛肉を包んだ紙は「きたない紙」だったとのこと。
吊り上げるまではワクワク。
包みを見たら、ちょっとドキドキ。
令和の衛生観念で見てはいけません。
隊士たちは、この牛肉を煮て副食にしていました。
白飯と漬物だけのお弁当に、ようやく肉が加わります。
……なんだか、ちゃんと美味しそうになってきました。
私としては、窓から帯を垂らすところから、煮るところまで黙って見守りたいです。
食べなくて大丈夫です。
陸援隊は洋式銃で調練していた
8畳の個室で暮らし、白飯と漬物を食べ、窓から牛肉を吊り上げる。
ここまで読むと、なんだか平和な陸援隊の生活紹介になっていますが、忘れてはいけません。
陸援隊は、討幕に備えた軍事組織です。
白川村の屯所では、洋式銃隊の調練も行われていました。
指導にやって来たのが、薩摩藩士の兵学家・鈴木武五郎です。

「兵学の先生」と聞くと、私は勝手に老練な達人を想像していました。
ところが鈴木武五郎は、弘化2年(1845)生まれ。中岡慎太郎より7歳年下です。
若い。
血気盛んな陸援隊士たちのところへ、老先生がやって来るのではありません。
20代前半の薩摩藩士が、同じく若い浪士たちに洋式銃を教えていたわけです。
幕末の頃、時代を動かしていたのは20代や30代の若者が主だったと、慎太郎と同じく土佐脱藩浪士の土方楠左衛門も述懐していました。
時代の主役は若者!
高齢化社会の令和から眺めると、20代、30代の人たちが社会の最前線で走り回っている感じが、眩しいです。
さらに白川の屯所には、十津川郷士隊約50人もやって来て、陸援隊とともに調練しています。
慎太郎の日記にも、その様子が残っています。
慶応三年八月二十日
陰天。十津川士初て稽古。
二十二日
午後十津川士来り玉打。同夜岩卿に到る。木うのに宿す。
(中岡慎太郎『行行筆記』より)
二十日には、十津川郷士が初めて稽古。
そして二十二日には、彼らとともに、射撃の訓練です。
「玉打」という字面だけ見ると、なんだか遊んでいるみたいです。
「今日はみんなでゴルフかな?」くらいの印象です。
けれど、実際にやっていたのは洋式銃を使った軍事訓練。
全然のんびりしていません。
平尾道雄『陸援隊始末記』によれば、十津川郷士隊まで合わせれば、いざという時には100人ほどの兵を動かせる状態だったといいます。
風雲を待ち望む隊士たちの意気は、まさに「軒昂たるもの」があったとか。
部屋は8畳。
飯は白飯と漬物。窓から牛肉を買う。
そんな日常を送りながら、若者たちは鉄砲を撃ち、来るべき戦に備えていました。
暮らしのすぐ隣に、しっかり戦支度がありました。
そして、この二つの訓練日の間、八月二十一日には、慎太郎たちは法然院・銀閣寺・詩仙堂を訪れています。
鉄砲の稽古ばかりではない、陸援隊の一日も追いかけてみました。
▼中岡慎太郎が率いた陸援隊とは?目的・隊士・海援隊との違いを詳しく見る
陸援隊のお小遣い事情。定額給料はなかった?
部屋は8畳。ご飯も出る。鉄砲の稽古もする。
では、お小遣いは?
ここが、ちょっと心もとない。
まず、海援隊と陸援隊そのものが、どういうお財布事情だったのか見てみます。
| 論点 | 史料から分かること |
|---|---|
| 海援隊・陸援隊 | 約規では「自営自取」。必要なときには藩から支給されることもありますが、定額ではありません。 |
| 海援隊 | 「毎人月五圓」を求めた具体的な記録があります。 |
| 陸援隊 | 隊士が小遣い銭に不自由すると、公卿たちがときどき融通してくれました。 |
■海援隊と陸援隊は「自営自取」
陸援隊幹部だった田中光顕は『維新夜語』で、海援隊・陸援隊の約規を引用しています。
『凡、海陸両隊仰ぐ所の銭糧常に之を給せず。其自営自取に任す。
但、臨時官乃之を給す。固より定める額無し。』
毎月決まった額を土佐藩からもらうのではなく、基本は「自営自取」。
必要なときには藩から支給を受けることもありますが、定額ではありません。
そして光顕は、この仕組みについて、
「つまり藩から支給を受けることもあるが、定額ではない。
各自勝手に自営の道を講じてするかわりに、海援隊で儲けた金は藩へ納金せずともよろしいという、甚だ自由な立場にあった。」
田中光顕『維新夜語』より
と振り返っています。
甚だ自由。
なかなか魅力的な響きです。
そして、かなり不安定です。
さらに約規には、
『海陸用を異にすと雖も相応援、其所給は多く海より生ず。』
とあります。
海援隊と陸援隊は役割こそ違っても互いに助け合い、必要なお金は「多く海より生ず」。
さらに、
『故に其所射利は亦官に利せず。両隊相給するを要とす。』
と続きます。
船や商売をする海援隊は、お金を生み出せます。
一方、討幕に備えて鉄砲を撃っている陸援隊。討幕では、なかなか売上が立ちません。
海援隊が稼ぎ、陸援隊が動く、そんな両輪のような役割分担もあったようです。
■海援隊には「毎人月五圓」の記録がある
しかも、海援隊には具体的な給金の記録も残っています。
慶応3年4月19日。
『後藤参政ニ至ル、参政曰、才谷社中合テ十六人、毎人月五圓ヲ乞フ』岩崎彌太郎の日記『瓊浦日歴』より
才谷、つまり坂本龍馬の社中16人について、
「毎人月五圓」とあります。
そして後藤象二郎は、まず100圓を龍馬へ渡すよう命じます。
『先ヅ金百圓ヲ才谷へ與ヘヨ、於是森田普三ニ命、
百圓ヲ爲持遣ス處、才谷より書状ヲ以百圓ハ士官へ投ズ、
我一人ノ給金ハ如何致呉候哉と尋越』
岩崎彌太郎の日記『瓊浦日歴』より
100圓を受け取った龍馬。
しかし、それを士官へ回したうえで、
「ところで、わし一人の給金はどうなる?」
と問い合わせてきました。
龍馬さん、そこはちゃんと確認します。
さらに話は続きます。
『又々才谷より此度登坂ハ無餞儀事ニ候ヘバ、是非五十圓借用申度段申来』
岩崎彌太郎の日記『瓊浦日歴』より
今度は、上坂するのにお金がないので、どうしても50圓借りたい。
そして彌太郎が、自ら龍馬の寓居へ50圓を持っていきます。
『金五十圓自分持参才谷寓へ到り投與ス、此金森田へ談、公金借用ス、
才谷喜悦、出酒且飲且談、大ニ當時人物條理ノ論ヲ發』
岩崎彌太郎の日記『瓊浦日歴』より
龍馬、喜悦。そして酒を出す。
お金が届いたあとの酒が早い。
そのまま彌太郎と、当時の人物や世の中について大いに語り合ったようです。
ただし、『瓊浦日歴』にあるのは、
「毎人月五圓ヲ乞フ」という記録です。
これだけで「海援隊員には毎月必ず五圓の固定給が支給されていた」とまでは言えません。
そもそも先ほどの約規には、海援隊・陸援隊ともに「固より定める額無し」とあります。
なのでここでは、
『海援隊には「一人につき月五圓」を求めた具体的な記録が残っている』としておきます。
■では、陸援隊のお小遣いは?
さて、海援隊には「毎人月五圓」の記録がありました。
では、陸援隊は?
平尾道雄『陸援隊始末記』によれば、隊士たちが小遣い銭に不自由すると、
岩倉具視、中山忠能、正親町三条実愛といった公卿たちが、ときどき融通してくれたそうです。
陸援隊士、財布がピンチになると公卿が助けてくれる。……お小遣いの相談先が豪華すぎます。
8畳の個室はある。飯も出る。でも、お小遣いは時々ピンチ。
陸援隊、住環境は強いのに財布が弱い。
夜は先斗町へ。陸援隊士、わりとヤンチャ
さて、財布の中は寂しい陸援隊士。
少ないお小遣いで慎ましくやりくりしていたのかというと、そうでもなかったようです。
先ほど牛肉の話をしてくれた陸援隊士・大江天也は、さらにこんな話を残しています。

夜になると先斗町あたりで遊ぶが、戦になれば明日にでも死ぬ身だと、勘定に頓着しない。
料理屋の仲居などで勘定を背負い込み、迷惑したものもずいぶん多かった。
(「大江天也談話筆記」より)
先斗町といえば、今も京都らしい風情が残る華やかな町。
陸援隊屯所からは3km以上あります。徒歩にして1時間弱。
陸援隊士、夜遊びするにも元気いっぱいです。
「戦になれば明日にでも死ぬ身」。
彼らがそんな気持ちで日々を過ごしていたことを思うと、ちょっと切なくなります。
ところが、陸援隊が発足した慶応3年7月以降、政局は大政奉還へと動き、彼らの出番となる戦はなかなか始まりませんでした。
明日死ぬかもしれないと思って飲んでも、翌日もまた来る。
そして、ツケも残る。
迷惑をこうむったお店の人には、たまったものではありません。
■慶応3年、中岡慎太郎が後藤象二郎へ送った「お金のお願い」
ちなみに慎太郎隊長自身も、後藤象二郎への手紙で、かなり率直に金銭援助を頼んでいます。

【現代語訳】
失礼ながら、お願い申し上げます。
先日からお願いしております、お恵みくださることになっているお金の件ですが、何卒、本日お渡しいただけますようお願いいたします。
つきましては、今日の午後4時ごろ以降に伺おうと思っています。
このことを、まずは書面にて申し上げます。
恐れながら、謹んで申し上げます。
(慶応三年九月、十月ころ/中岡慎太郎から後藤象二郎宛書状)
「御恵」とか書いてあると、現代語的には切実すぎるのですが、
これは単純な個人的物乞いというより、慎太郎が後藤象二郎に以前から依頼していた資金について、改めてお願いしている手紙です。
しかも午後4時ごろ以降に伺うと、時間まで指定済み。
「今日お願いします」の圧が強い。
隊長も財布と戦っていました。
がんばってください……!
【マンガ】田中光顕、犬を肴にする
ところで、のちに陸援隊幹部となる田中光顕も、元気いっぱいすぎるエピソードを残しています。
陸援隊成立の少し前、薩摩藩邸に潜伏していたころのお話です。

「たまにはご馳走を」の方向性が、現代人の想像を軽々と超えてきます。
とりあえずマンガでは、イメージ図としてホットドッグにしました。
実際のところは……お察しください。
動画で見る|陸援隊士の暮らしとヤンチャぶり
今回紹介した、光顕の犬エピソードや先斗町で夜遊びする陸援隊士たちは、慎太郎&龍馬の歴史トーク『土佐ラジオ』でも紹介しています。
銀閣寺散歩、酒、犬まで。
陸援隊士たちの暮らしとヤンチャぶりを、1分30秒でどうぞ。
まとめ|陸援隊士も、ちゃんと暮らしていた

討幕部隊というと勇ましいですが、彼らにも部屋があり、ご飯を食べ、肉を買い、調練し、夜には遊びに出る日常がありました。
慎太郎隊長も29歳。
主だった隊士たちを見ても、二十代や三十代の若者ばかりです。
こうして暮らしを追いかけてみると、「陸援隊」という歴史上の集団ではなく、一人ひとりの若者としての姿が見えてくるでしょう。
とりあえず私は、お小遣いあげたいです。
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