【思想】吉田松陰の「死後の弟子」として|中岡慎太郎が太宰府で誓った自戒の言葉「激飲狂舞」
●慶応二年の正月、太宰府で起きた「謹慎事件」

慶応二年(1866年)の正月、中岡慎太郎は筑前(福岡県)の太宰府に滞在していました。
そこには「五卿(ごきょう)」と呼ばれる、都を追われた尊攘派の公家たちが滞在しており、彼らを支えるために全国から多くの志士たちが集まっていました。
お正月ということで、当然のように宴会が開かれたのですが……。 そこで事件は起こります。
なんと、宴会ではしゃぎすぎて「礼儀を失した」として、5人もの志士が謹慎を命じられてしまったのです。 🤣🤣

しかし、我らの中岡慎太郎は、一切お咎めなしでした。ヤッタネ💮
●慎太郎が記した自戒の言葉「激飲狂舞」

仲間たちが怒られるなか、正月四日。
慎太郎は静かに机に向かい、自分を律するための言葉を筆で書き残します。
激飲狂舞、主は其の財を費し、
客は其の礼を失い、
以て気合い意投ずとなす、
是れ俗風に流るるところにして、予の取らざる所也。松陰吉田矩方先生の遺誡也。
慶応丙寅元月首四、謹みて録す。 大山道正
(松岡司氏『中岡慎太郎』より引用)
※「大山道正」とは、当時慎太郎が使っていた変名です。
●【現代語訳】口先だけの志士にはならない

この言葉を現代語風に訳すと、慎太郎の強い決意が見えてきます。
「世の中には、口では『国のため』と言いながら、人のお金で暴飲暴食し、騒ぎ回る者がいる。
それは主の財産を無駄にし、客としての礼儀も失っている。
それを自分たちの『気合の表れだ』などと勘違いしているのは、
ただの悪い流行に流されているだけだ。私は、そんな生き方は絶対にしない。
これは、吉田松陰先生が遺してくださった戒めである。
慶応二年一月四日 ――中岡慎太郎(大山道正)」
●吉田松陰の「死後の弟子」としての誇り
慎太郎が吉田松陰先生の存在を知ったとき、すでに松陰先生はこの世を去っていました。
それでも慎太郎は、松陰先生の著作を読み込み、その思想に深く共鳴しました。
自らを「松陰先生の死後の弟子(しごのもんじん)」と称するほど、その教えを人生の指針にしていたのです。
この「激飲狂舞」の文章も、ただ「自分は真面目だ」と自慢したかったわけではありません。
周囲が浮き足立つお正月の空気のなかで、「自分は松陰先生の弟子として、恥じない生き方ができているか?」と、自分自身に問いかけていたのでしょう。
※この時の慎太郎くんの「ちょっと誇らしげ(?)」な様子を、こちらの動画で妄想補完しています!⬇
●中岡慎太郎の「思想」が見える瞬間
「中岡慎太郎」と聞くと、薩長同盟のために奔走した行動派のイメージが強いかもしれません。
けれど、彼を突き動かしていたのは、こうした日々の小さな自戒や、尊敬する師の教えを忠実に守ろうとする誠実さでした。
日記や書状に残されたこうした短い言葉のなかにこそ、彼の揺るぎない「思想」が宿っている。 そう思うと、慎太郎くんのストイックさがより愛おしく感じられませんか?🐭💖


