土佐勤王党とは?中岡慎太郎との関係・終焉と“残された志”を史実で解説

幕末の土佐で結成された「土佐勤王党」は、武市半平太を中心に大きなうねりを生み、やがて悲劇的な終焉を迎えた志士集団です。
そしてこの勤王党は、のちに陸援隊を率いる中岡慎太郎の青春にも、確かに関わっています。

……ごきげんよう!
中岡慎太郎のことを考えると血沸き肉躍る🐭ちゅう乃です🔥

今回は中岡慎太郎の青春の1ページ【土佐勤王党】について歌にしてみました🎤🏔


🐭この記事の目的

土佐勤皇党の歌動画をより楽しんでもらうために、

  1. 土佐勤王党の基礎知識
  2. 中岡慎太郎との関係
  3.  終焉とその影響
    …以上を“史実まとめ+私的見解”の二層で解説します。
    (※随所に私の個人的感想が元気に飛び出します)

💡この記事で分かること

  • 土佐勤王党とは何か/誰がいたか
  • 中岡慎太郎は勤王党とどう関わったか
  • 勤王党はなぜ終わり、何を遺したのか

土佐勤王党とは

土佐勤王党は、その名の通り土佐(→高知県)で生まれた幕末の尊王攘夷派志士たちのグループ。

文久元年、1861年に武市半平太を中心として結成されました。
てっきり盟主も武市さんかと思いません?
意外と盟主は別人で、深尾鼎さんです。
(私は間違えたので歌詞を書き直しました🤣)

上士もいますが、ほとんどが郷士などの身分の低い人たちばかりです。

土佐藩を尊攘派にして、薩摩や長州と共に日本を変えるぜよ!的なことを目標にしていました。
その時の土佐藩を牛耳ってた吉田東洋を暗殺し、邪魔者を排除。
一時期は土佐藩だけでなく日本中で尊攘派がブイブイ言わせてたこともあり、土佐勤王党もかなり幅を利かせていたようです。

が!
土佐勤王党が期待してる土佐藩前藩主・山内容堂は、尊攘派じゃないぜよ!

八月十八日の政変が京都で起きて、尊攘派が一気に勢いを失うと、土佐藩も手のひらクルー✋
土佐勤王党は粛清され、瓦解してしまうのです…😢

🐭個人的に土佐勤王党に思うこと

上士と下士、ガッチガチに上下関係があって身分差別が厳しかった土佐藩。
江戸時代から約260年。ずっと身分差別を受けてきた下士に生まれていたら、どれだけ悔しかっただろうかと思います。

そんな時、黒船の轟音から始まる幕末の動乱で「自分の命の使い場所」を見つけられたのなら、どれだけ感動しただろうか…とも思います。

土佐勤王党のみんなを見る時、とても夢と希望に輝いて見えます。
泥にまみれ、踏みつけられても、前をむこうと立ち上がった土佐勤王党。
その先の未来が粛清であったけれども、私は彼らの命の輝きが眩しくて美しく思っています。


💡要約

史実まとめ:文久元年(1861)、武市半平太ら土佐の下級武士・郷士を中心に結成。尊王攘夷を掲げ、藩論を勤王へ動かそうとした。のちに藩政との対立が深まり、弾圧へ。

私的ひとこと:差別まみれの土佐で「命の使い場所」を見つけた若者たちの眩しさ…それが私の推しポイントDA!


中岡慎太郎と土佐勤皇党

わたくしの最推しである、中岡慎太郎。
彼と土佐勤皇党の関係について。

結成時の文久元年だと22歳。まだ名前が中岡光次だった頃のことです。

血盟書には17番目に名前を書いています。全部で200人近くが名前を書いてるので、17番目だと結構 前のめり 初期メンですね。
前の方に名前を書いてたら中心人物と言えるのかと言うと、
必ずしもそんなこと無さそう(後ろの方も勤王党主要メンバーいます。平井収二郎とか)ですが、早々に参加した光次の意気込みを感じてます🔥

土佐勤王党時代の中岡慎太郎をイメージしたオリジナルイラスト。緑の着物姿で刀を握る若き慎太郎

この頃の中岡慎太郎が書いた手紙に、「大道」という言葉を手紙に書いていることは評伝で指摘されてます。
彼が何のことを大道・志と呼んだのか、自分では明言してません。
が、そういうワードチョイスする頃にちょうど土佐勤王党へ加入してるところから、尊皇攘夷に燃えていたんじゃないかなあと思いますね。
熱いよね、カッコイイよね!ね!?

文久三年になると、土佐勤王党の弾圧が開始します。ちょうど長州へ行って帰ってきた慎太郎に、同志が「土佐に帰ったら危険」と教えてくれたそうです。

そこでそのまま脱藩して長州へ!

ここから中岡慎太郎の志士としての活動は、さらに深まっていきます。
禁門の変…忠勇隊…五卿のお世話(警護や随従)に、薩長同盟…。

尊皇攘夷を掲げた土佐勤王党が壊滅することで、中岡慎太郎は志士としてさらなる活躍をしたのは、
もしかしたら(もしかしなくても)散っていった同志たちの志を継いでいったからなのかもしれません。

尚、土佐勤王党の一員である二十三士が、武市さんを救うべく立ち上がったところ、何の取り調べもなく全員斬首されるという悲劇が起きました。

涙を抱えて沈黙すべし。他に策なし
…と中岡慎太郎が手紙に書いたのは、この悲劇を知って土佐の同志へ向けた書いた言葉です。これほんと好き。

土佐勤王党員に入っている時期に、五十人組の伍長となり中心人物として活動したり。
長州の久坂玄瑞とも交流があり、一緒に佐久間象山先生に会いに行ったりしたようです。

土佐勤王党の活動の一環…では無さそうですが、こうやってたくさんの経験や交流によって、尊皇攘夷の志が育まれたんでしょうね。


💡要約

史実まとめ:慎太郎(当時・光次)は血盟書17番目の署名。のちに脱藩し長州へ。禁門の変・忠勇隊・五卿周旋などを経て、薩長同盟の周旋で存在感を放つ。

私的ひとこと:「大道」を口にする若き慎太郎の熱さ、手紙の言葉が刺さりすぎる…🔥


土佐勤皇党の人物

武市半平太

土佐勤皇党の盟主・武市半平太の創作イラスト。夕焼け空を背に鎧姿で立つ姿。画像内テキスト「武市半平太」「土佐勤皇党の刃として吉田東洋を討つ。その烈しき志はやがて天誅組へと続く。」「土佐の志 声高らかに轟け!」
土佐勤皇党を率いた武市半平太の創作デザイン。

武市半平太(たけち はんぺいた)
もしくは武市瑞山(たけち ずいざん)。

土佐勤王党の党主。※盟主ではない
土佐藩下士の出身で、剣術に優れ、藩内で尊皇攘夷を掲げる同志を結集させた。
文久1年(1861年)に勤王党を結成し、土佐藩の尊攘派の中心人物となったが、やがて弾圧を受けて捕縛。
慶応元年(1865年)、切腹を命じられ生涯を閉じた。

🐭個人の感想
現代人的な感覚で見ると、武市さんには「藩を変える」よりも「自分のやりたいように自由に活動したらいいのに?」って思っちゃうんですよ。

例えるなら――
🅰️ 武士としては「主君に忠義を尽くし、主君と一緒に日本を変える」スタイル。
🅱️ 会社員としては「社長に忠誠を誓い、会社ぐるみで日本を変える」スタイル。

どちらも理屈としては分かるけど、「会社(藩)や社長(主君)を見限って独立(脱藩)しない」っていう発想が、時代の違いを感じるなあ~と思います。

(🤫動画的な話🤐)
武市さんのデザインを、月代とチョンマゲで羽織袴姿にしたかったんです。
そしたら地獄を見ました。
全然デザインが統一できないんですよ!
「誰なんだよ!!!」と何度叫んだことか…(白目)

そんなわけで歌動画では、全く別人としか思えない男性がセンターを何度も飾っていますが、気にしてはいけません。絶対に…

坂本龍馬

土佐勤皇党出身の志士・坂本龍馬の創作イラスト。夕暮れの港で地図を広げる姿。画像内テキスト「坂本龍馬」「海軍操練所を経て日本を動かす調停役に。維新目前に暗殺され志半ばで倒れる。」「日本を今一度せんたく致し申す」
海援隊を率い維新へと奔走した坂本龍馬の創作イメージ。

誰でも知ってる人気者🐉坂本龍馬

土佐勤王党にも加わったが、早い段階で脱藩し、全国を舞台に活動するようになる。
薩長同盟の成立を仲介するなど、幕末史の転換点に関わり、日本の近代化に大きな影響を与えた人物。

🐭個人の感想
私にとって龍馬さんは、いつまでも少年の心で自由に生きてる人。
幕臣の海軍塾に入ったり、商社を作ったり――既存の枠にとらわれず、日本と未来を見据える感覚が好きです。

近眼で目を細めていたって話もあるから、私の脳内ではいつもニコニコ☺️。
笑いながら自由に未来を描く姿が、龍馬さんらしいと信じております。

中岡慎太郎

土佐勤皇党の志士・中岡慎太郎の創作イラスト。京都の町を歩きながら書状を握る姿。画像内テキスト「中岡慎太郎」「薩長を結び陸援隊を率いて維新の礎を築いた周旋家。龍馬と共に京の闇に斃れる。」「藩を越え、義のため抜身覚悟!」
薩長同盟成立に奔走した中岡慎太郎の創作イメージ。

土佐勤王党の一員であり、のちに「周旋家」として活躍。脱藩後は長州や薩摩を奔走し、薩長同盟の実現に尽力した。
龍馬とともに維新回天を推し進めたが、慶応3年(1867年)、京都・近江屋で龍馬と共に襲撃され、短い生涯を閉じた。

🐭個人の感想
好きがすぎる。

炎のような志も、ひたむきに日本中を駆ける足も、まっすぐ未来を見据える瞳も――全部好き。
手紙や日記が多く残っているおかげで、彼の「至誠を尽くす姿勢」や「人々を護ろうとする想い」が直に伝わってきます🔥

中岡慎太郎という人を知れてよかった。
私にとって人生の道標ですよぉお🥹💖

吉村寅太郎

土佐勤皇党の志士・吉村虎太郎の創作イラスト。紅葉舞う山中で刀を手に進軍する姿。画像内テキスト「吉村虎太郎」「天誅組を率い大和に挙兵。死を覚悟した戦いを駆け抜け、維新を先駆けた烈士。」「維新の夜明け 哀心で咲くがぜよ」
天誅組挙兵を率いた吉村虎太郎のイメージイラスト。

土佐勤王党の同志で、後に天誅組の中心人物の一人となった志士。
文久3年(1863年)の天誅組の変で挙兵し、戦闘の末に討ち死にした。
武市+龍馬+慎太郎とともに、土佐四天王に数えらえる。

🐭個人の感想
見た目は穏やかそうなのに、意外と激しい子。
武市さんの奥さんも「感じのいい子だった」と評していたけれど、実は土佐の脱藩第1号という行動派。

なお…慎太郎くんが徒目付に任命された時、冷笑的に悪口を書いた手紙は忘れてないからね😤

中岡光二、徒目付に召し出され候。有志の笑止する所にて賞すべき事とは存じ奉らず

――吉村虎太郎の文久3年5月3日の手紙より抜粋

天誅組のリーダーとして史上最悪のタイミングで挙兵し、大和で討ち死に。辞世の句が好きです。

吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ

――吉村虎太郎の辞世の句

東吉野にある、お墓参りへ行ったことがあります。
紅葉と雪に包まれた墓前でこの句を思い出したとき、本当に胸が熱くなりました。

岡田以蔵

土佐勤皇党の暗部を担った岡田以蔵をイメージした創作デザイン。

土佐勤王党に加わった剣客で、「人斬り以蔵」とも呼ばれた。
尊皇攘夷運動の過程で暗殺や襲撃に関わったとされる。
のちに勤王党弾圧の際に捕らえられ、拷問の末に処刑された。

🐭個人の感想
正直なところ、「以蔵は自分の人生をどう考えてたんだろう?」って思います。
武市さんの指示で暗殺に手を染めて、誇らしかったのかなぁ…。

勝海舟を警護した時のエピソードは印象的です。
「もし自分が刺客を斃さなければ、倒れていたのは勝さんだ」と冷静に答えた以蔵。
考えなしではなく、自分なりの筋を持っていたのだと思います。

暗殺を繰り返したその先に、どんな未来を見ていたのか…切なくなります。

那須信吾

土佐勤皇党の志士・那須信吾の創作イラスト。秋の山道を駆ける若き武士。画像内テキスト「那須信吾」「天誅組の闘いを担い、土佐勤皇党の若き志として散る。」
天誅組に関わった若き志士・那須信吾の創作イメージ。

勤王党の頃は、吉田東洋暗殺に関わる。後に吉村虎太郎と同じく天誅組に参加。
文久3年の天誅組の変で戦い、吉村とともに討ち死にした。
熱き勤王の志士としてその名を残している。

🐭個人の感想
これは完全に個人の趣味ですが、愛読書『お〜い竜馬』の那須信吾が忘れられない🤣
背が高くて、ボロボロの着物にふんどし丸出し、アゴが長めの短髪。
なぜか「知り合いにいる気がする!」既視感があって、親しみMAXです。

そのせいで天誅組として戦死する姿も強烈に心に残ってるし、禁門の変で義父(那須俊平)まで戦死するのも忘れられない。
もう“推し”を通り越して“ガチ知人”レベルの親しみです。

だから200人以上いる土佐勤王党から、歌に登場させるメンバーとして彼を選んだのも必然🫡
決死隊として勇ましく戦った姿、私は大好きです。

他のメンバーについて

主たるメンバー、ざざっと並べてみます。

・乾退助
・谷干城
・大石弥太郎
・島村衛吉
・間崎哲馬
・河野万寿弥
・島村寿之助
・土方楠左衛門
・千屋 寅之助
・千屋菊次郎
・千屋金策
・北添 佶磨
・田中光顕
・高松太郎
・平井収二郎
(簿外)
・池内蔵太
・安岡嘉助

歌動画的に、出せるのは6人が限界でした。
なお、以蔵・吉村・那須が血盟書の簿外だと後で知りましたが、もうその話はここまでだ✋

繰り返しますが、武市さんのキャラデザが、ぶっ倒れそうになるほど統一感ないです。
顔も髪も服も違うチョンマゲ風の男性が何回か出てきますが、
もし推しメンがこの歌に出なかったという人は、あの謎の男性を貴方の推しと思って見てください🤣

土佐勤皇党の終焉

💡史実まとめ

  • 文久3年(1863)前藩主・山内容堂が謹慎から帰国し人事が転換。
  • 6月、平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太が処分(切腹)。
  • 同年8月18日の政変で京の尊攘派が失速、長州は京追放。天誅組(吉村虎太郎ら)も壊滅。
  • 以後、土佐では勤皇党弾圧が加速。武市は投獄(上士格で拷問は免れるが獄中で衰弱)、他の党員は厳しい拷問。
  • 元治元年(1864)岡田以蔵が捕縛・自白するも、武市らは否認。決定的証拠は乏しいまま、慶応元年(1865)武市は「不敬」を名目に切腹、以蔵らは斬首。
  • 一連の弾圧で指導層を失い、勤皇党は事実上壊滅。

🐭私的ひとこと

実質2年で潰えた、夢の全力疾走。
権力の向きが変われば命まで傾く時代の理不尽さは、ただただ悔しい。
慎太郎の「涙を抱えて沈黙すべし」は、仲間を想う静かな叫びだと思ってる。

土佐勤皇党の遺したもの

土佐勤王党の志士たちを描いた創作集合イラスト。武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎らが夕陽を背に並ぶ姿

💡史実まとめ

  • 党は壊滅したが、脱藩組(中岡・坂本など)は各地で周旋・調整役として活躍。
  • 慎太郎&龍馬は薩長連携を前に進め、討幕体制づくりの一翼を担う。
  • 藩内でも後藤象二郎・板垣退助らが時勢に合わせて動き、土佐はやがて新政府の一角へ。
  • 「土佐から出た若者たち」が明治政治・軍事・自由民権など多方面で名を残した。

🐭私的ひとこと

土佐勤王党が遺したものは、人。
志とネットワークと、時代を走り抜ける胆力。

土佐勤王党の夢の炎は、確かに燃え続けた——
と、感じるのであります🫡🔥
彼らの命と志が、新しい日本の夜明けにつながったのだと思うと胸が熱くなる。

ありがとう、そしてさようなら…土佐勤王党!!!


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