野根山二十三士とは?嘆願書・清岡道之助・中岡慎太郎との関わりを解説

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野根山二十三士とは、
幕末の土佐で起きた集団処刑事件です。
武市半平太の解放と藩政改革を求めて動いた23人は、全員が斬首されました。

この記事では、
土佐ラジオ#9「慎太郎ウォーク編」で取り上げた野根山二十三士について、
動画では触れきれなかった背景も含めて深掘りします。

▶ 土佐ラジオ#9「慎太郎ウォーク編」はこちら

※クリックで該当箇所から再生します🐭

💡この記事で分かること

・野根山二十三士とは何か
・清岡道之助とはどんな人物か
・嘆願書の内容
・中岡慎太郎との関わり
・「涙を抱えて沈黙すべし」の意味

まずは、野根山二十三士の全体像から見ていきましょう。

野根山二十三士とは

野根山二十三士の石碑写真と二十三士のイメージを組み合わせた土佐ラジオ画像

元治元年(1864年)7月25日、
土佐東部の安芸郡にある野根山街道の先、岩佐関所で起きた事件が
「野根山二十三士」です。

集結したのは、現在の田野町・安芸市・北川村・安田町・室戸市など、
安芸郡各地の郷士や庄屋層の23名。

年齢は16歳から41歳までで、
平均年齢は25歳でした。

彼らの目的は、
前年に捕らえられた土佐勤王党の武市半平太の解放と、
尊皇攘夷を掲げた藩政改革を求める嘆願でした。

しかし藩庁はこれを武装蜂起と受け取り、高知城下に戒厳令を敷いて追討兵を差し向けます。

二十三士は戦うことなく阿波(現在の徳島県)へ逃れ、
そのまま京都へ脱藩することも考えていたようです。

ところが、阿波の宍喰関所で役人に止められ、武装解除のうえ拘束されました。

8月30日には土佐への引き渡しが通知され、罪人用の駕籠で護送されました。
9月3日、彼らは田野奉行所に設けられた牢へ入れられ、
9月5日早朝、奈半利川原で23人全員が斬首されました。

野根山二十三士は、嘆願のために動いた人々が、
その訴えを聞き入れられないまま集団処刑された事件でした。

幕末の土佐における弾圧の厳しさを象徴する出来事のひとつです。


野根山二十三士はなぜ決起したのか

文久3年(1863年)9月21日、
土佐勤王党のリーダー・武市半平太に逮捕命令が出されました。

その後、半平太だけでなく主要な同志たちも次々と捕らえられ、
土佐の尊皇攘夷派は一気に窮地へ追い込まれます。

そんな中で持ち上がったのが、
武市半平太の解放と藩政改革を求める「嘆願のための決起」でした。

この弾圧の詳しい経緯については、こちらの記事でまとめています。

土佐勤王党の粛清とは?八月十八日の政変後、土佐で起きた尊攘派弾圧

1863年の八月十八日の政変後、土佐で起きた土佐勤王党の粛清と尊攘派弾圧を解説。武市半平太の捕縛・拷問の実態、土佐の空気が一変した背景、そして中岡慎太郎が「出る」…

動画・土佐ラジオ#9では、この決起を端的に紹介しました。

龍馬🐉
「武市さんを助けたい、いうて集まった人らやろう?」

慎太郎🗻
「そうじゃ。藩のやり方を改めてほしい、攘夷をちゃんとやってほしい、
武市先生を放してつかあさい――そう訴えるために、命がけで集まったがよ。」

二十三士の目的は、武市半平太の解放と、土佐の藩論を尊皇攘夷へ改めることでした。
しかも彼らは、嘆願して終わるつもりではなく、
聞き入れられなければ京都へ脱藩して国のために働くことまで考えていたようです。

そう考えると、この決起は単純な決死の覚悟で起こされたものではなく、
『次』の行動まで見すえたものだったと分かります。

二十三士の決起に至るまで

この決起は、土佐勤王党の中でも広く支持されたわけではありませんでした。

捕縛を免れた主要人物たちが今後の方針を話し合った際も、慎重論・自重論の方が強かったようです。


清岡道之助が提案した「嘆願のための決起」は無謀だと言われ、賛同されませんでした。

ただ、清岡道之助の決起案は、ただの思いつきや玉砕覚悟の決起ではありません。

松岡司氏の著書によれば、道之助は元治元年7月8日の時点で密書を送っていました。


土佐藩は京師警衛のため、上京を命じられていました。
さらに禁門の変直前で、長州藩の動きも緊迫していました。
道之助は、これを藩論反転への追い風と見ていたようです。

そのため実際に動いたのは、清岡と同じ安芸郡の人々が中心でした。


野根山に集まった二十三士は、土佐勤王党全体の総意というより、
追い詰められた状況の中で、それでもなお動こうとした一部の同志たちだったといえます。

安芸郡の人々が動いた背景

土佐勤王党、
そして野根山二十三士の多くは、
郷士や庄屋層の人々でした。

土佐は身分制度がとくに厳しい藩として知られ、下士や郷士は強い抑圧の中に置かれていました。

中岡慎太郎や坂本龍馬のように、
その土佐を飛び出して未来に向かった人もいます。

一方で、土佐に踏みとどまり、
耐えながら機会をうかがう人々もいました。

野根山二十三士の決起には、
そうした土佐の空気がにじんでいるように思います。

すぐに大きく蜂起するのではなく、
まずは嘆願という形で藩に訴えようとしたことにも、
土佐の郷士らしさが表れているのかもしれません。

これはまだ勉強中の私の、今の段階での考えです。

ただ、同じ尊皇攘夷派でも藩によってはもっと過激な動き方をする人たちがいたことを思うと──、


野根山二十三士の選択もまた、
土佐という土地のあり方と深く結びついていたのではないでしょうか。

土佐勤王党の人々の慎み深さや我慢強さを、いじらしく感じます。

清岡道之助と嘆願書

清岡道之助(天保4年10月20日〈1833年12月1日〉- 元治元年9月5日〈1864年10月5日〉)は、
土佐藩安芸郡の郷士です。


中岡慎太郎より5歳年上で、土佐東部の尊皇攘夷派のリーダー格だったといわれています。

土佐勤王党の血盟書には名を連ねていませんが、
尊皇攘夷の志を持つ同志として、慎太郎をはじめ多くの人と関わりがありました。

慎太郎が脱藩する大きなきっかけになった「八月十八日の政変」の情報をもたらしたのも、この道之助です。


※慎太郎が脱藩するまでの流れや、
道之助との関わりはこちらで詳しく解説しています ↓

中岡慎太郎の脱藩を徹底解説|動機・背景・長州を目指した理由と推定ルート

中岡慎太郎はなぜ土佐を脱藩したのか。八月十八日の政変前後の動き、檄文・逮捕命令、二度目の脱藩と推定ルート(御畳瀬〜阿波経由)、長州を目指した理由まで史料をもと…

道之助は片目を失明していたことから、「独眼竜」とあだ名されていました。
動画ではイメージ画像を使用しましたが、実は写真も残っている人物です。

中岡慎太郎館の特別展冊子『禁門の変』の表紙を写した写真と土佐ラジオの紹介画像

この冊子は、2025年に中岡慎太郎館で購入したものです。

道之助の写真や書状のほか、中岡慎太郎の写真や手紙も多数掲載されていて、
後半には学芸員の方による解説もあります。
コンパクトながら情報がぎゅっと詰まった一冊です。

なお、今回の記事・動画化にあたって主に参考にしたのは、この冊子に加えて以下の書籍です。

・宮地佐一郎『中岡慎太郎全集』
・宮地佐一郎『中岡慎太郎―維新の周旋家―』
・松岡司『中岡慎太郎―龍馬と散った男の生涯―』

野根山二十三士の嘆願書

野根山二十三士の連署嘆願書を紹介する土佐ラジオ画像

野根山二十三士が出した嘆願書は、
先ほどの冊子にも掲載されており、『中岡慎太郎全集』にも全文が収録されています。

動画で取り上げたのは、その終盤にあたる部分です。

なるべく原文のニュアンスを崩さないようにしつつ、
現代語にするとこのような内容になります。

もともと私たちのような身分の低い者が申し上げるのはおこがましいことですし、
これまで受けてきた藩のご恩を今さら言い立てるまでもありません。
ただ、殿の御前で最後には命を投げ出す覚悟でいる――それだけです。


けれども、国のことを思うと黙ってはいられず、やむなく書面で差し出しました。
どうかこの非礼をお許しください。
そして、今の非常事態を一掃するようなご方針を、
一刻も早くお示しくださるようお願いいたします。

もし私たちがここに集まったこと自体が罪であるなら、
その処分は後日どのようにでもお受けします。

ここには、土佐の郷士らしい切ないほどの“へりくだり”と、
それでも国のために立ち上がろうとする覚悟の両方がにじんでいます。

「非常事態を一掃するようなご方針」とは、
要するに藩論を尊皇攘夷に改めてほしい、という訴えだったのでしょう。

二十三士は、嘆願にあたって徹底して身を低く置きながらも、
伝えるべきことはまっすぐ伝えよう
としていました。

そして、それが罪に当たるなら、その処分も受ける覚悟を示しています。

ただ、ここで書かれているのはあくまで「嘆願のために集まったことへの覚悟」です。
問答無用で訴えすら聞かれず、
二十三人全員が斬首されることまで受け入れていたとは、やはり思えません。

そう考えると、この嘆願書はいっそう悲しく見えてきます。


ここまで覚悟して集まった人々の訴えが届くことなく終わったこと、
その無念さが強く伝わってくるのです。

中岡慎太郎との関わり

野根山二十三士の事件は、慎太郎にとって決して遠い出来事ではありません。

舞台となった安芸郡は、慎太郎の故郷・北川のある土地です。
二十三名の中には、慎太郎も学んだ田野学館の関係者や、
慎太郎と直接つながりのある人々も多く含まれていました。

新井竹次郎(26)は、慎太郎が「君子小人は人に在り、家に在らず」と、
人の尊さは身分では決まらないと説いた手紙で動かされ、
のちに北川郷の総老となった俊才です。

豊永斧馬(27)は、慎太郎とともに江戸へ上った五十人組の仲間。
須賀恒次(30)は、慎太郎が一緒に脱藩しようと誘った同志でした。

また、川島総次(総二)は、集結地となった岩佐関所の関番士頭であり、
慎太郎の長姉・縫の夫でもあります。
慎太郎にとって、義兄までもがこの事件の参加者だったのです。

もし慎太郎が脱藩していなければ、
この嘆願に加わっていた可能性も十分にあったでしょう。

さらに宮地佐一郎氏の評伝では、
元治元年五月十一日付の慎太郎の手紙を紹介したうえで、

二十三士野根山屯集強訴事件は、本状による士気鼓舞に与るところが大きかったと考えられる」
と記しています。

そう考えると、慎太郎にとって野根山二十三士の事件は、
単なる“郷里の悲劇”では済まされなかったはずです。

もしかしたら、自分もその場にいたかもしれない。
もしかしたら、自分の手紙が彼らの決意を後押ししたのかもしれない。

そのように思えばこそ、
元治元年十月十日の手紙に記された言葉の重みも、いっそう深く感じられます。

中岡慎太郎の手紙「涙を抱えて沈黙すべし」

「涙を抱えて沈黙すべし」という中岡慎太郎の言葉を紹介する土佐ラジオ画像

「涙を抱えて沈黙すべし」
この言葉は、元治元年十月十日、
野根山二十三士の非業の死を知った慎太郎が同志に宛てた手紙に記したものです。

事件からまだ1か月ほどしか経っておりません。
この事件の報せは、長州にいた慎太郎のもとにも、すぐ届いていました。

ここで慎太郎は、
涙をこらえろとも、 悲しみを忘れろとも言いませんでした。

「抱えて」と言うのです。

悲しみは消えないし、なかったことにもできない。
だからこそ胸に抱えたまま、今は黙るしかない。

そんな重さが、この一語にはにじんでいるように思います。

上から言い聞かせるような訓戒ではなく、
同じ悲しみの中にいる者として呼びかけているように感じられるところにも、慎太郎らしさがあります。

この短い言葉には、慎太郎自身がどれほど深くこの死を受け止めていたかが、
静かに表れているのではないでしょうか。

野根山二十三士の最期と土佐藩の処分

先述の通り、野根山二十三士の結末は斬首でした。

嘆願書が受け入れられることもなく、十分に思いを述べる場もないまま、
彼らは奈半利川原で次々と首を斬られました。
このときの処刑の様子については、後年の目撃談が残されています。

尚、宮地佐一郎氏の著書では、
この目撃談は「中岡源平の妻・お絹」という女性の回想として紹介されています。
しかし、宮地氏・松岡司氏の別の記述では、
中岡源平の妻は慎太郎の姉「京」とされており、
私にはなお人物関係を整理しきれないところがあります。

それでも、その回想に記された処刑の光景は、「その物凄さは言語を以て尽くすこと出来ず」と語られるほど凄惨なものでした。

莚の上に座らせ、その前に幅・深さともに一間ほどの長い溝を掘っておき、ひとりずつ首を斬る。
落ちた首は溝へ落ち、体が立ち上がろうとすると、首切役がそれを蹴り込んだ。

――そんな目撃談が残されています。

最初に斬られたのは、16歳の少年だったとも伝わります。
そのあとも、次々と処刑は続きました。

目の前で仲間が斬られていく中、自分の番を待つしかなかった二十三士。
そして、その場に立ち会った人の証言を読むと、この出来事の凄惨さがいっそう重く迫ってきます。

土佐藩から見れば、これは下士・郷士による反乱の芽を摘む処分だったのかもしれません。

けれど、そこには一人ひとり名前のある人間がいました。
その名を知り、最期を知ると、ただの「事件」では終わりません。

野根山二十三士という出来事の重さが、いっそう強く迫ってきます。

現在残るゆかりの地

現在の高知県安芸郡田野町には、野根山二十三士ゆかりの地が残っています。


彼らが斬首された場所には、石碑のある二十三士公園があります。
今では桜や菜の花が咲く、穏やかな公園になっているようです。

【二十三士公園】

さらに公園から徒歩7分ほどの場所には福田寺があり、そこに二十三士の墓があります。
説明板も設置されていて、二十三人の名前を確認することができます。

福田寺/二十三士の墓】

今は静かなこの場所で、幕末の動乱の中、土佐藩を変えようと命を懸けた人々がいた。
そう思うと、風景の見え方も少し変わってくるかもしれません。

野根山二十三士のことを知ったあとにこの地を訪ねれば、
少し耳を澄ませると、彼らの声が聞こえてくるような気持ちになれるはずです。

📻土佐ラジオ#9でも野根山二十三士を解説しています

今回の記事は、土佐ラジオ#9「慎太郎ウォーク編」で取り上げた
野根山二十三士の話を、背景も含めて深掘りしたものです。
動画で流れをつかみたい方は、こちらもあわせてどうぞ。

▶ 土佐ラジオ#9「慎太郎ウォーク編」

※クリックで該当箇所から再生します🐭

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