【幕末文化】中岡慎太郎は漢詩、坂本龍馬は和歌?志士たちが嗜んだ「教養」のスタイルを解説

幕末の志士にとって、「漢詩」は教養のひとつとして広く親しまれていました。
吉田松陰や高杉晋作といった有名どころの漢詩は多く残っていて、
我らが(!)中岡慎太郎も、旅先や酒宴など日常のあらゆる場面で自作の詩を詠んでいます。
その一方で、盟友の坂本龍馬は、
漢詩よりも「和歌」を好んで楽しんでいたようですよ。
💡 この記事で分かること
- 幕末の志士と「漢詩」の深い関わり
- 坂本龍馬が「和歌」を愛した理由と家庭環境
- 土佐ラジオshort:春霞と黄砂から紐解く幕末の風流
激動の時代を生きた人びとが、
季節やことばをどう味わっていたのか。
教科書には載っていない、
幕末の文化や暮らしをちょっと覗いてみましょう🐭🎶
●土佐ラジオ「春霞と黄砂」から、幕末の風流をのぞいてみる
春の空が白んでいたら、現代人としては
「げ!花粉だ〜😫」なんて、ちょっと気が滅入りませんか?
けれど、平安時代から続く風流な和歌の世界では、
この情景を「春霞(はるがすみ)」と美しく詠っています。
動画の中で私は龍馬さんにお伝えしていますが、もし平安時代の歌人たちに
「春霞って言っても、正体は花粉か黄砂でしょ?」
なんて現実を突きつけたら……。
「雅(みやび)じゃない!!」って 一喝されるのか、
それとも寝込むほどショックを与えてしまうのか、
ちょっと気になります(笑)
●春霞は風流だけど、今は黄砂や花粉を連想してしまう

では、平安時代や江戸時代の人達は
黄砂や花粉を知らなかったのか?
…というと、そうでもありません。
霾(つちふる)という季語があり、
これこそが黄砂のことです。
さすがにPM2.5はない時代だと思いますが、
花粉と黄砂は昔から存在していて、
ちゃんと認識されていました。
それでも『春霞』と表現する、
その雅さが素敵ですよね。
春霞を見て春を感じる。
景色に心を動かされる。
そして、それを和歌にする。
そうした感覚は、幕末の人びとの暮らしにも、
たしかにあったのでしょう。
●幕末男子のたしなみは漢詩だった? 武士の教養として広まった背景

幕末の武士や志士たちにとって、
漢詩は教養のひとつだったとされています。
現代の感覚だと、
幕末の志士は 剣を振るい、政治を語り、討幕に奔走する人たち──
という印象が強いかもしれません。
でも実際には、学問を修め、漢文を学び、
漢詩を作ることも、男子たちのたしなみだったようです。
つまり、幕末男子はただ熱いだけの体育会系男子ではありません。
勉強もしている。
ことばも磨いている。
しかも、想いを表す手段として漢詩を使っていた。
意外とインテリで、かっこいいです!
幕末と漢詩は近い関係にあります。
政治や剣術だけでなく、ことばの文化もまた、
幕末を理解するうえで欠かせない要素だったのです。
●幕末の志士たちは、漢詩を教養として身につけていた

幕末の有名な志士たちを見ても、
漢詩と縁のある人物は少なくありません。
たとえば吉田松陰、高杉晋作。
長州の志士たちには、思想だけでなく、
ことばで志を表す文化 がありました。
土佐でも同じで、中岡慎太郎や武市半平太などの漢詩は、
今も遺墨集などで直筆のものを見ることも出来ます。
ちなみに、武市半平太は和歌のほうが得意だったとも言われますが、
それでも当時の教養として漢詩を学んでいたという話があります。
このことからも、漢詩は一部の文人だけのものではなく、
幕末の志士たちに広く共有された教養だったことがうかがえます。
●高杉晋作も詩を残した――『東行遺稿』と田中光顕
高杉晋作もまた、漢詩を残した人物として知られています。
『東行遺稿』という漢詩集の存在は、
高杉晋作と漢詩 の関係を知るうえで興味深い材料です。
しかも、この『東行遺稿』には
土佐出身の田中光顕が関わっています。
田中光顕は、陸援隊で中岡慎太郎の右腕のような存在でもありましたが、
高杉晋作の弟子入りもしていました。
明治になってから、幕末に亡くなった志士たちの遺墨を集め、今に残した人です。
藩を越えて人がつながり、 思想や行動だけでなく、
ことばや詩の世界でも交流があった と考えると、とても魅力的です🐭
●中岡慎太郎も、日常の中で「漢詩」を楽しんでいた

中岡慎太郎もまた、
漢詩に深く親しんだ幕末志士のひとりです。
彼の日記や遺された漢詩を紐解くと、
それは決して堅苦しい「学問」だけではなく、
もっと彼自身の日常に根ざした、身近なものだったことがうかがえます。
たとえば、仲間との酒宴の席で即興の詩を作ったり、
土佐を脱藩する際の断腸の思いを漢詩に託したり。
さらに、憧れの高杉晋作が詠んだ漢詩を扇(おうぎ)に書き写して大切に持ち歩いていた、というエピソードも伝わっています。
今でいう「推しの名言をスマホの待ち受けにする」ような感覚だったのかもしれませんね🐭ワカル…
慶応二年のお正月には、亡き吉田松陰の漢詩を一生懸命(?)書き写したエピソードも残っています。
そのエピソードがあまりに可愛くてたまらないので、
詳しくはこちらの記事にまとめています⬇
こうしたエピソードは、
慎太郎ひとりに限ったことではありません。
幕末の男子にとって漢詩とは、机の上で学ぶだけのものではなく、
自分の感情や人間関係を託すための大切なことばでもあったのだと感じます。
日記や書状だけでは、どうしても「真面目な実務家」という一面ばかりが目立ちますが──
漢詩を通して彼らを見つめ直すと、
そこには豊かな知性と情感をあわせ持つ、
ひとりの人間としての血の通った姿が見えてくる。
そこが、幕末文化を知る醍醐味なんです!🐭
●中岡慎太郎の漢詩をひとつ味わってみる
中岡慎太郎の漢詩に触れると、 政治の最前線で動く「実務家」としての顔だけでなく、
ことばに深い想いを託す「繊細な表現者」としての姿が見えてきます。
例えば、こちらの一首。
薩長同盟の実現に向けて、荒波のなか薩摩へと向かっていた時に詠まれた漢詩です。

“過筑紫灘有(筑紫の灘を過ぐる有り)”
天涯客と為りて已に三歳 (故郷を離れてもう三年になる)
家書万金求むべからず (家族からの便りは何物にも代えがたい)櫛風沐雨苦辛の際 (苦難の連続ではあるが)
微衷直に欲す報国の讐 (この真心で国に報いたい)豈に図らんや一朝事大きく誤り (思いもよらず事態は暗転し)
遂に大譴を将て公侯に帰せんとは (主君にまで累を及ぼしてしまった)吾が身死すべきにして未だ死せず (死ぬべき時に死ねなかった私は)
淪落且つ抱く偸生の羞 (落ちぶれて生き永らえている恥を抱いている)
- 家族からの便りを切望する、孤独な旅人の心
- どんな苦難も厭わない、国への熱い報国心
- 亡き同志を想い、生き残った自分を責める峻烈な自己批判
慎太郎の心の奥底にある、
強さと脆さがそのまま響いてくるようですよね😭
書状には書けないような、
漢詩だからこそ吐露できた「ひとりの人間」としての切実な叫び。
こうした詩を読み解くことで、慎太郎は「歴史の中の偉人」から、
私たちと同じように悩み、苦しみ、
それでも前を向いた「ひとりの青年」として立ち上がってくるのです。
※脱藩の時に同志と作った漢詩も紹介しています。
こちらの記事もあわせてどうぞ!⬇
●坂本龍馬は和歌好き? 龍馬の家族にあった風流な空気

幕末の武士にとって「漢詩」が重要な教養だった一方で、
坂本龍馬の家庭には少し異なる文化の風が吹いていたようです。
高知県にある「龍馬の生まれたまち記念館」を訪れた際にお聞きしたお話では、
坂本家では家族みんなで「和歌」を楽しむ習慣があったのだそうです。
曽祖父・井上好春(よしはる): 国学に精通した学者で、自らも和歌を詠んだ。
父・直足(なおたり): 文武両道で、和歌に深い造詣があったといわれている。
こうした環境もあり、龍馬の兄・権平や姉の乙女さんも和歌を嗜んでいました。
つまり、坂本家にとって和歌は特別なものではなく、
生活に溶け込んだ身近な文化だったというわけですね。
激動の幕末にあって、家庭の中に歌を愛でる風流な時間があった……。
それは、龍馬のあの伸びやかで明るいキャラクターや、
誰に対しても親しみやすい「柔らかさ」のルーツにも繋がっているように感じられます。
家族の仲が良く、風流を愛する。
そんな温かな家庭文化が、維新の英雄・坂本龍馬を形作ったのかもしれません。
※坂本家と中岡家の違いをもっと知りたい方はこちら!⬇
(参考元:龍馬の生まれたまち記念館)
●漢詩が主流の時代に、龍馬が和歌を好んだのはなぜか

幕末の武士にとって「漢詩」が重要な教養だったとすれば、
龍馬が「和歌」の文化を大切にしていたという話は、少し異色に感じるかもしれません。
坂本龍馬が和歌を好んだ理由をはっきりと断定できません。
けれど、社会文化評論家の上里剛士氏の著書『明治維新はエピソードがいっぱい』では、興味深い考察がなされています。
それによると、
「漢詩には起承転結の規則や、押韻(おういん)など創作にあたっての厳しいルールがある。龍馬はそのような“決まり事”を好まなかったのではないか」
というのです。
こちらは1992年の本ですが、この解釈がすごく龍馬さんらしくて腑に落ちたんです。
たしかに、自由奔放で型にハマらないイメージの龍馬さん。
ガチガチのルールに縛られるのは、いかにも性格に合わなそうですよね(笑)
もちろん、和歌にも文字数や季語といった決まりはあります。
けれど幼い頃から家の中で和歌に親しんでいた龍馬さんにとって、
そのリズムは「ルール」ではなく自分を表現するための自然な言葉だったのかもしれません。
みんなが漢詩で盛り上がるなか、あえて自分に馴染んだ和歌を詠む。
まさに、あの有名な和歌の精神そのものではないでしょうか?!
世の人は 我を何とも言わば言え
我が成す事は 我のみぞ知る
●春霞をきっかけに見えてくる、幕末の文化と暮らし

「春霞」と「黄砂」のお話から始まった、今回の旅。
そこから見えてきたのは、幕末の人々も私たちと同じように、
季節の移ろいや言葉の響きを心から楽しんでいたという姿でした。
幕末の志士たちは、ただ険しい顔で国の行く末を論じていたわけではありません。
学び、詩を作り、歌を楽しむ──。
激動の時代のなかにあっても、
豊かな「ことばの文化」の中で生きていたのです。
中岡慎太郎のように、漢詩を自らの魂を映す鏡として、日常的に親しんだ人物。
坂本龍馬のように、家族の温かな和歌文化のなかで、自由な感性を育んだ人物。
同じ土佐の志士であっても、その教養や風流の形はそれぞれでした。
幕末というと、どうしても政治や戦いといった「動」の面に目が向きがちです。
けれど、春霞を見て心を動かし、それを歌にして味わう「静」の暮らしも、そこにはたしかに存在していました。
そう思うと、雲の上の存在だった幕末の志士たちが、ほんの少しだけ身近に感じられませんか?

春の情景を詠む前に、まずは現代の必需品・メガネとマスクで完全防備!🤣
そんな冗談も交えつつ、私たちも春の景色を通して、かつての志士たちが愛した文化に触れていけたら素敵ですね。

